学部・研究科・附属病院の歴史

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薬学部・薬学研究科

歴代学部長・研究科長

昭和25年(1950)4月1日 内藤 多喜夫
昭和38年(1963)4月1日 石坂 音治
昭和42年(1967)4月1日 塚本 長太郎
昭和44年(1969)4月1日 稲垣 勲
昭和46年(1971)4月1日 塚本 長太郎
昭和48年(1973)4月1日 安江 政一
昭和50年(1975)4月1日 白井 秀明
昭和52年(1977)4月1日 水谷 彰
昭和54年(1979)4月1日 伊藤 磯雄
昭和56年(1981)4月1日 手島 節三
昭和58年(1983)4月1日 酒井 朝也
昭和60年(1985)4月1日 喜谷 喜徳
昭和62年(1987)4月1日 岸本 博
平成元年(1989)4月1日 池田 憲
平成3年(1991)4月1日 川添 豊
平成5年(1993)4月1日 榊原 仁作
平成7年(1995)4月1日 池澤 宏郎
平成9年(1997)4月1日 渡邊 稔
平成11年(1999)4月1日  渡邉 淳
平成12年(2000)4月1日 奥山 治美
平成13年(2001)4月1日 中西 守
※2002年(平成14)大学部局化により
以後研究科長
平成17年(2005) 4月1日 今泉 裕治
平成19年(2007) 4月1日 水上 元
平成23年(2011)4月1日 宮田 直樹
平成25年(2013) 4月1日 平嶋 尚英
平成29年(2017) 4月1日 林 秀敏

旧研究科長回顧録

名古屋市立大学名誉教授
奥山 治美

名古屋市立大学名誉教授
奥山 治美

 新型コロナウィルスが連日ニュースで取り上げられています。WHOの事務局長が“パンデミック”という用語をつかうことに決断しました。これに乗じてリーダーシップを印象づけようとする国の指導者も少なくありません。この用語は、歴史的にはスペイン風邪で使われたのが最新のものであり、死者五千万人以上と記録され、第一次世界大戦後にスペインから北方への兵士の帰還に伴って患者が爆発的にふえたものです。
  今年のCOVID19はこれに比べ致死率が数ケタ低く、多くの専門家はいつもの季節風邪にくらべて危険度は変わらないと理解しています。WHO事務局長は平成21年(2009)のSARS問題の時にこの用語を使いましたが、欧州議会の前保健衛生委員長は、これを批判し、EUの司法に提訴しています。WHOの予算の7割は寄付によっており、企業の専門家がWHOに出向き、その意見を発表できる制度が作られており、その内容によって薬の備蓄、ワクチンの製造などに巨額の医療費が動くからです。私の専門としてきた脂質栄養と生活習慣病の分野でも同じです。油糧種子の生産、その粕を使った畜産等の産業、油脂食品、コレステロール低下医療など広範な産業・企業が脂質栄養と関っています。そのため、WHO及び油糧種子と利害関係の深い米国の政府機関はともに、「動物性(飽和)脂肪の代わりに植物油脂を増やすこと」を勧めており、わが国をはじめ多くの国はこれを追随しています。
  しかしこのWHOや米国の政府、医学界の栄養指導はフェイク資料に基づいており、逆に非常に危険なものとなっていました。カノーラ菜種油をはじめオリーブ油、水素添加大豆油などは、動物に与えると人の摂取量に相当する量で脳卒中促進、腎炎発症、出血性促進、環境ホルモン作用などを示します。これら植物油脂が、「ビタミンK2-オステオカルシン」の連係を阻害して各種の毒性を示すのです。スタチンもこれと共通のメカニズムをもっています。臨床観察研究でも、このメカニズムに合う報告が増えています。私たちは「数種の植物油脂の摂取を減らし、脳卒中予防効果の期待できるコレステロールや動物性脂肪を増やすこと」を勧めています。
 日本人は平均寿命、健康寿命が世界のトップクラスであり、医療制度も先進国の部類に入ります。日本人の健康問題は見かけ上問題なさそうでした。ところが平成29年(2017)に、少子化の速度や65歳以上の認知症有病率などが世界のトップを走っていることが明らかにされました。そして間違った油脂の選び方が、その主因であると考えられる多くのデータがあることを報告しました。「日本人は絶滅危惧民族―誤った脂質栄養が拍車」、中日出版、2019年。日本の次世代を心身ともに健全に育てるために、是非時間を見つけて読んでみてください。そして生活習慣病にかかる脂質栄養や専門医学界の示す血圧、脂質、血糖等のガイドラインがグローバル企業によりゆがめられ、医療法に定める「良質でかつ適切なもの」から外れている問題を直視してほしいと念願します。

名古屋市立大学名誉教授
中西 守

名古屋市立大学名誉教授
中西 守

 本年は名古屋市立大学創立70年周年にあたり、誠に記念すべき年であります。薬学部並びに大学院薬学研究科の教員・職員・学生の方々に心からお祝い申し上げます。
  私が名古屋市立大学に在籍しておりました頃と比較しますと、現在は7学部と1附属病院を有する中部地区を代表する総合大学に成長したといえます。教職員の方々ご尽力の賜物と思って深く感謝いたしております。
  東大では理学部化学科出身の坪井正道教授の研究室を希望して、薬品物理化学教室に所属し、卒業研究を行いました。大学院進学したときには物理教室に池上明先生が助教授として赴任されました。池上先生は研究の学生が少なかったこともあり、坪井先生のアドバイスで私はその研究室に自由に行き来をし、物理学の実験研究の特性を池上先生から 仮説を立てて実験でもってそれを証明する ことをしっかり教わりました。坪井先生は分子構造の研究者で分光学(赤外・ラマン分光)の研究で国際的にも著名でした。池上先生は生物物理学のメッカである名古屋大学の大澤文夫先生の門下でした。両先生の指導の下にタンパク質・核酸の構造のゆらぎの研究を進め、当時の実験機器では追究できない動的構造の研究で成果を上げることができました。この様なとき名古屋市立大学薬学部から教授に招いて頂きました。ちょうど平成元年でした。ここから私の名古屋市立大学薬学部での勤めが始まりました。
  新しい研究室は元気でまじめで研究熱心な学生さんであふれていました。研究室はいつも夜遅くまで電気がともっていました。彼らとともに当時まだ珍しい共焦点レーザー顕微鏡を開発し、単一細胞内の分子の動きを可視化して観測し機能を追究することに成功しました。まだ少し若かったこともあり、新聞とか科学雑誌のコラムに記載されたこともありました。平成も二桁に入ると,大学の役職を引き受けることになりました。あまり自分ではとても適任とは思っていませんでしたが,数回の市立大学評議員をしました。平成8年(1996)大学審議会から出された「大学院の教育研究の質向上に関する審議のまとめ」から名市大でも「学術研究の高度化と優れた研究者養成機能の強化」を目指して医学部に続き薬学部でも渡辺淳学部長の下、改組の準備を始め、何度も文科省に通い、若手の今泉祐治教授と力を合わせて名古屋市立大学大学院薬学研究科の設立をすることができました。そして14年(2002)4月から薬学部長と兼任で大学院薬学研究科長も引き受けました。
  17年間の充実した研究の日々はあっという間に過ぎました。何度も海外の学会で発表をしたり、研究室を訪ねたりしました。その度に気づいて、驚いたことは女性の理系の研究者の数の多さでした。何ら臆することなく、男性の研究者の中で討論し、反対意見を述べ、対等に研究を進めている姿に日本もこうならなくてはと思いました。在職中に名市大広報に「薬学教育とジェンダー」というタイトルで述べたことがあります。日本はまだ女性の社会進出が先進国と比べて飛び離れて低いという調査が先日にも新聞に出ておりました。改めて女子学生の皆さんに研究者として活躍されることを願っています。

退職記念祝賀会にて
退職記念祝賀会にて

平成17・18年度 薬学研究科長  今泉 祐治

名古屋市立大学名誉教授
今泉 祐治

 新型コロナウィルスによる未曽有のパンデミックの禍中にありながらも、名古屋市立大学が令和2年(2020)の開学70周年を大きな発展の中で迎えられましたことは、誠に喜ばしいことであります。継続して温かい支援をいただいている名古屋市、卒業生とご家族、そして諸サポート団体・企業・市民の皆様に対し、大学の現執行部の一員(理事・副学長)として心より感謝を申し上げます。
 私は40年間薬学研究科に教員として在籍しましたが、薬学研究科長を拝命していた平成17・18年度(2005, 2006年度)を思い起こすと、当時、極めて大きな転機を迎えていた研究科の緊迫した日々が走馬灯のように脳裏に蘇ります。この2年間に薬学部が直面していた大きな課題が次の3つでした。① 平成18年4月1日の大学法人化。② 平成18年度入学者からの薬学部6年制導入。③ 平成17・18年度の薬学研究科施設の全面改築の基本設計・実施設計。
 大学の法人化は、「大きな裁量権を与えられた理事長・学長のリーダーシップの下に、執行部が効率の良い戦略性に富んだ施策立案・実行運営を行うことにより、大学が独立した1つの組織として教育・研究を通じて特色ある人材育成と社会貢献の成果を挙げ易くする」と言うコンセプトで、国立大学が2年先行実施していました。全学法人化検討委員会長の横山信治医学研究科教授の下で、薬学部代表メンバーとして2年近く準備にあたりました。国公立大学法人化の功罪の議論は多くありますが、大学一体での事業推進を可能にする体制づくりは功の一つだと思います。4キャンパスを有する本学は、各学部設置の背景も異なるため各研究科の独自性が強いため、法人化による大学一体感醸成に若干の時間を要しましたが、第3期の70周年事業でいよいよ機運が盛り上がってきたと実感しております。
 薬学部6年制発足にあたっての大きな課題の一つは、実務家教員の確保と最大の実習先でもある医学部付属病院の薬剤部長職の教授化でした。平成17年(2005)に木村和哲先生を薬学部准教授に採用し、6年制薬剤師教育推進の中心を担っていただくことになりました。薬剤部長教授化については平成18年(2006)当時の医学部長であった郡健二郎現学長と何度も協議しました。最終的に医学部教授会で承認していただき、公募選考で木村先生が就任され胸を撫で下ろしたことを昨日のように思い出します。
 薬学部施設の全面改築は前任の中西守先生が学部長の平成16年(2004)に名古屋市から決定が下されており、順調に設計を進めれば良いはずでした。講義棟に先んじてOSCE実施可能な実習棟と研究棟の全面改築を第一期工事とする方針を取ったのは、平成20年にリーマンショックの発生で経済が大停滞して第2期工事開始が危ぶまれ、1年遅れたことを考えると非常な得策であったと思います。また実施計画がほぼ完全に確定しつつあった平成18年(2006)12月28日に急遽大学本部に呼ばれました。名古屋市から建築条例の改定に伴い、12階建て予定の研究棟を6階建て2棟に変更したいという説明を受けました。建築面積(=建築費)を変えないため3階以上の渡り廊下に屋根を付けない条件など、その場で多くの決断することを求められ、年明け早々の臨時教授会で了承を得るなど、大変に思い出深い1年でした。
 遠く過ぎ去った日々を顧みると多くの方々のお力添えがあっての開学70周年の大学と薬学研究科の現在があることを改めて痛感します。名古屋市立大学が公立大学の雄として益々発展することを祈念し、それに少しでも貢献できるように日々力を尽くしたいと考えております。

名古屋市立大学名誉教授
水上 元

名古屋市立大学名誉教授
水上 元

 名古屋市立大学開学70周年おめでとうございます。私は、平成5年(1993)8月1日に薬用植物園実習施設に助教授として採用されてから平成26年(2014)3月末で定年退職するまで足かけ22年間お世話になりました。私が研究科長・学部長に着任した平成19年(2007)4月は新しい薬学教育制度がスタートし、田辺通キャンパスの全面改築は第1期工事(研究棟と実習棟の新設)の実施設計が終了したばかりの時で、薬学部120年(当時)の歴史の中でも大きな変動期でした。薬学研究科としての大きな方向性は、前任の今泉祐二先生や、さらにその前の中西守先生のもとでの熱心な議論の結果として定まっていましたので、私はそれを着実に実行していくという役回りでした。
 全学的には、公立大学法人化した直後で、予算と特に教員定員の削減が進められようとしていた時期でした。そのような中で、新しい教育制度と施設にふさわしい教育研究体制を構築していくかという点では、それなりの苦労をしたように思います。研究科長になってすぐの時には、部局長会議などで理不尽な要求をされて抵抗している夢を見て早朝に目覚めてしまうことが何度もあり、抑肝散のお世話になりました。幸い、文部科学省の大学教育改革支援事業にいくつかのプロジェクトが採択されたこともあって、大きな後退は免れることができたと思います。大学の執行部に今川正良先生が副学長・理事としておられましたし、何よりも研究科の教授会はまとまっていて、うしろから鉄砲を撃たれる心配はありませんでしたので、大学の会議などでは薬学研究科の意向をしっかりと伝えることができたと思います。
 研究科長1年目(2007年)の冬には医学研究科元教授が学位審査に関連した収賄容疑で逮捕されるという事件がありました。名古屋市内3大学の薬学部長の先生方と栄で楽しく飲んでいた時に、今川先生からの電話で呼び戻され、今泉先生と3人で研究科としての対応策案を夜遅くまで相談したことを覚えています。また4年目(2010年)には医学研究科の教授・准教授による論文不正事件があり、やはり今泉先生とともに調査委員会に加わりました。調査は1年間ほど続いたと思います。画像処理などに詳しくない私はあまり役に立ちませんでしたが、調査委員長をされた今川先生は本当に苦労されて調査報告書をまとめ上げられました。
 平成21年(2009)にはリーマンショックの影響で名古屋市の税収が減り、キャンパス改築の第2期工事(講義棟と厚生棟の新築)にストップがかかってしまいました。そのような時に瑞穂区役所で地域の方々と河村市長との懇談会があり、住民の方が改築を早く進めるようにという意見を述べられ、市長からはご期待に沿う方向で対応するという回答があったと報告を受けました。実際、翌年度の予算に第2期工事の実施設計費が計上され、改築が再び動き出しました。公立大学は地域の住民の方々から支持されることが何よりも大切だということを痛感しました。私が現在勤務している高知県立牧野植物園が「県民の誇りの拠点としての発展」を目指しているのも、この時の思いが原点にあります。名古屋市立大学が、地域に根ざすとともに、世界に発信する大学としてますます発展されることを願っております。

田辺通キャンパス改築完成予想図
2007年に作成された田辺通キャンパス改築完成予想図。
ほぼこのとおり出来上がりました。

名古屋市立大学名誉教授
宮田 直樹

名古屋市立大学名誉教授
宮田 直樹

 名古屋市立大学の開学70周年をお祝い申し上げます。
犬山市で生まれ名古屋市で育った私は、縁あって平成13年(2001)年大学院薬学研究科/薬学部に着任しました。着任前のヒアリングの日は、春なのに初夏のような暑さでした。ヒアリング後の夕刻時、吹き始めたそよ風を快く感じながら山崎川河畔を散策し、桜山で味噌煮込みうどんをふうふう言いながら味わい、「あぁ、これが名古屋だ。」と独り言ちたのを鮮明に覚えています。今から20年前のことです。ちなみに、平成12年(2001)は、イチローが海を渡りマリナーズで新人王/MVPを獲得した年です。
 それから平成25年(2013)までの13年間、薬化学分野で薬学教育研究に携わりました。その間、素晴らしいスタッフと70名余の学生さんに囲まれて楽しく有意義な研究室生活を遂行できたことに感謝です。薬化学分野を後継された中川先生はじめ、研究室で共に研究した仲間たちの今後の活躍を楽しみにしています。
 平成23年(2011)から平成25年(2013)まで薬学研究科長/薬学部長を務めました。平成23年(2011)は東日本大震災で福島第一原発の原子炉がメルトダウンした年です。就任前の3月11日は修士論文公開発表会の日でした。私は5階の教授室に居ましたが、突然ゆらゆらと横揺れを感じ、新研究棟がミシミシと軋んで音を立てるのを耳にし、倒れることはないと信じながらも一瞬恐怖が走りました。さて、研究科長としての2年間は、薬学研究科が大きく変革した年です。平成24年(2012)に新6年制薬学科の最初の卒業生と博士前期課程創薬生命科学専攻の最初の修了生が誕生するとともに、3年制の博士後期課程創薬生命科学専攻及び4年制の博士課程医療機能薬学専攻が新設され新薬学教育システムが完成しました。また、平成23年(2011)に医薬品安全性評価学分野の新設と創薬基盤科学研究所の設立、平成25年(2013)に名古屋工業大学との共同大学院ナノメディシン科学専攻が設置されました。設備の面では、平成24年(2012)度末に第二期工事(講義棟及び厚生棟等)が竣工し、続いて第三期工事(旧研究棟北館と旧食堂の取り壊しと駐車場等の外構整備)が行われ平成25年(2013)に完了しました。新しい研究教育体制ときれいになった新キャンバスで、広く社会に貢献できる人材の育成と最先端研究が遂行されることを期待しています。その一方で、薬学キャンパスのシンボル的存在であった正門横のメタセコイアの大木や薬友会館前の見事な桜の木等が外構整備工事で伐採されてしまいました。残念です。
 私は平成25年(2013)に定年退職しましたが、引き続き平成31年(2019)まで6年間、皆様のご厚意で特任として創薬基盤科学研究所で仕事をさせていただきありがとうございました。平成31年(2019)、私が完全リタイアした平成最後の年に奇しくもイチローが現役生活を終えました。偶然の一致です。
最後になりましたが、70周年を迎えた名古屋市立大学の更なる飛躍を願っています。

紅葉に映える正門横のメタセコイア
紅葉に映える正門横のメタセコイア

薬友会館前の桜と旧研究棟北館
薬友会館前の桜と旧研究棟北館

生体超分子システム
解析学分野 教授
平嶋 尚英

生体超分子システム
解析学分野 教授
平嶋 尚英

 私は平成10年(1998)に助教授薬品分析化学講座(中西教授、現 生体超分子システム解析学分野)に着任いたしました。この約20年の間に薬学キャンパスの周辺の景色もだいぶ変わってしまいましたが、一番変わったのは薬学キャンパスそのものです。私は平成25年(2013)度から平成28年(2016)度まで、研究科長兼学部長を務めましたが、最初の年である平成25年(2013)の夏にキャンパス改築の全工程が終了しました。とてもすばらしいキャンパスで、私はたまたま完成時に研究科長であっただけですがで、各方面の多くの方々からお褒めの言葉をいただき、鼻の高い思いをしました。今泉先生はじめ歴代の研究科長、建築委員会の皆さんのご尽力の賜物です。オープンキャンパスでも高校生に好評で、薬学部の志願者増にも大きく貢献しました。また、水上教授の御提案で「ペアレンツカミングデー」という新企画を行い、在学生のご家族の方々に新キャンパスと薬学部の教育と研究、学生生活を体験していただきました。この企画は大変好評で、以後3年毎に行なわれています。名古屋工業大学との共同大学院「共同ナノメディシン科学専攻」が設置されたのもこの年です。これは現研究科長の林先生が中心となって展開された「薬工融合型ナノメディシン創薬研究者の育成」という事業が文科省の大学院教育プログラムとして採択されたのを契機に設置されたもので、文科省から高い評価をうけました。
 平成26年(2014)度は、翌年にせまった薬学教育評価機構による6年制薬学教育の評価と、改訂コアカリキュラムによる新しい薬学教育の開始の準備をする必要がありました。前者は湯浅先生、後者は服部先生と鈴木匡先生が大活躍され(まさに適材適所)、翌年無事に「評価基準に適合」の認定をいただき、新コアカリによる教育も無事スタートしました。
 平成27年(2015)度は、開学65周年の事業が行われ、前年度に学長に就任された郡先生のリーダーシップによる「新しい名市大」が学内外にアピールされました。忘れられないのは、抗癌剤オキサリプラチンを開発された喜谷喜徳先生が設立された財団(喜谷記念トラスト財団)から薬学の教育と研究ご支援をいただける話が、喜谷先生のもとで助教授をされていた野路先生からもたらされたことです。野路先生は、喜谷先生の弟でいらっしゃる英国在住の喜夫様を通じて財団に強く働きかけてくださり、翌年財団から博士の学生への奨学金と研究機器をいただくことができました。喜谷先生と財団への感謝をこめて、現在共研の一部を喜谷がん研究センター(写真)とし、1階入口正面に喜谷先生のご業績を掲示しています。
 平成28年(2016)度は、研究環境の点で大きな進展がありました。喜谷財団のご支援による機器導入に加えて、NMRと共焦点レーザー顕微鏡が導入されました。また、宮田先生の御尽力で設立された創薬基盤科学研究所が、「創薬基盤科学技術開発研究拠点」として文部科学省から共同利用共同研究拠点の認定を受け(写真)、新たな研究機器の導入とともに共同研究の支援を行なうことができるようになりました。
キャンパスだけでなく、いろんな面で新しいことが生まれた4年間で、大変感謝しております。

田辺通キャンパス改築完成予想図