卒業生の声
人との出会いのおかげで、今がある
2023年初頭、多くの新聞の経済欄に愛知製鋼株式会社で19年ぶりとなる生え抜き社長の誕生が報じられた。愛知製鋼といえば、トヨタグループ13社の中でも伝統を持つ企業の一つで、日本を代表する特殊鋼メーカーである。
そして、56歳という若さで代表取締役社長に就任した後藤尚英(ごとうなおひで)さんは、1989年に名古屋市立大学経済学部を卒業した本学OBだ。
後藤さんの父は腕の立つ鍛冶職人。しかし商売人ではなく、人が良過ぎた。お客さんから古くなった自分の製品を持ち込まれると、新品への買い替えを勧めるのではなく、その人の懐具合のためにタダで修理することも多かった。おかげで家計は決して楽ではなかったという。
ただ、実家にはたくさんの人が集まり、そんな人たちと両親のやり取りを見聞きしていたせいか、世の中にはさまざまなことで困っている人が多いということを肌で感じていた。後藤さんはそんな人たちの役に立てれば立ちたいと思い考え、商売屋で生まれ育ち、会社員というものを知らなかったこともあり、漠然と将来はカウンセラーにでもなろうと思っていた。
しかし、そのために受けた大学受験を失敗。就職も考えたが、「大学ぐらい出ろ」とお金を貸してくれたお客さんがいたこともあり、浪人し翌年もう一度共通第一次学力試験に挑戦した。
しかし第一志望には再び手が届かなかった。途方に暮れていた時、進路指導の先生との面談で「名市大はどう?」と勧められた。それが家計を考えて、私大も県外も非現実的だと考えていた後藤さんにとって、進路を決める契機となった。
「経済学部を選んだのも社会に出てからすぐに役立つ、稼げる実学を学べるのではないかという思いからでした」
不自由が多い学生時代だったが、名古屋市立大学ではさまざまな人に出会い、いろんな考えや家庭があることを学んだ。
「今の私があるのは、そんな人々のおかげです」と後藤さん。
名古屋市立大学では、経済史を専門分野とする塩見治人先生(現在:名誉教授 )に師事。塩見先生から日本のものづくり業界の面白さやダイナミズム、さらにトヨタグループをはじめとする企業群まで幅広く学んだ。これが、のちに後藤さんがメーカー、それも愛知製鋼に就職するきっかけになった。
アルバイトで得た貴重な経験
また、学費を工面するためにいろんなアルバイトをする中で、忘れられない経験をしている。その一つが、知人から家庭教師を頼まれた中学3年生の男の子。
「父親の転勤で名古屋に来たものの、学校になじめず不登校になってしまった子の相手をしてほしいという、親御さんからの依頼でした」
依頼されたことは受ける、という商売人の家庭に育った後藤さんは二つ返事で引き受けた。
「無理に学校に行かせようとしても効果がないことは、若いなりに分かっていました。幸い、勉強はそこそこできる様子だったのでとにかく大学で自分が楽しんでいる姿を見せようと思ったんです。それを見て自分もそんな大学生活を楽しみたい、そのためには今学校に行って勉強しなきゃ、と思ってもらえたらと考えていました」
これがたまたまうまくいき彼の顔には次第に笑顔が戻り、ほどなく学校に通えるようになった。
「彼とはプロレスごっこもしたんですが、手加減のない蹴りをみぞおちに入れられることもあり、結構体張った仕事でした(笑)」
噂が広がり、同じような依頼で後藤さんに声がかかるようになったという。困っている誰かのために自分に何ができるか、考動し役に立つことで結果として自分の世界が広がっていく実感を得たのもこの頃のことだった。
「他にもさまざまな出会いがあり、私の人生に大きな影響を与えてくれました」
ゼミ旅行での集合写真 後藤さん(上段左)、塩見先生(上段右)
周りが就職活動を始めていく中、後藤さんは経済学部の友人の一人から、就職を延期して海外留学をしようと考えているという話を聞いた。
もともと米国に憧れていたこともあり、一度しかない人生やりたいことをやっておきたい、自分も留学する!と急に思い立った後藤さんは、留学資金を稼ぐ長期アルバイトのため信州に向かった。
「それが4年生の初夏ですから、いずれにしても就職は翌年チャレンジするつもりでした」
ところが10月になってアルバイトが落ち着いた頃に、塩見先生に会いに行くと「1社くらい受けてみたらどうだ?」と言われた。塩見先生が言うなら1社くらい受けてみようと思い、学生課に相談に行くと「愛知製鋼の採用枠が一つあるけど、行ってみる?」とのこと。
その時、就職する気は正直無かったが、塩見先生のゼミで教わったトヨタグループの1社であることは覚えていた。トヨタグループには興味もあったので話だけは聞いてみよう、と後藤さんは面接へ向かった。面接の場で人事担当役員が後藤さんにこう声を掛けた。
「後藤君は実家の家計が苦しくてアルバイトをしていると聞きましたが、こうして当社を訪ねてくれた以上、もう君は家族と同じです。困ったことは何でも言ってください」
この言葉が後藤さんの心に響き、人生が大きく変わることとなった。そしてその役員はこう付け加えた。
「それに、当社には留学制度もあります」
これが決め手になった。こうして後藤さんは休学して留学することをやめ、愛知製鋼にお世話になることを決めた。
アメリカでの工場立ち上げ
入社前の配属希望では、自分には合わないと思い込んでいたため「経理以外ならどこでも」と提出した。しかし、配属されたのは経理部。しかも上司のS部長は、のちに社長になったという人物だけに、とても厳しく指導された。好きな仕事とは正直思えない中、必死に勉強しながらついていったという。
「でも入ったばかりの私を新人扱いせず、一人前として扱ってくれたことが嬉しかった。もっと嬉しかったのは、配属2年目にS部長の推薦で憧れていたアメリカ留学に応募し、選抜してもらったことでした」
その後、アメリカ留学している最中にいわゆる「バブル景気」が崩壊。国内需要が急速に収縮する一方、円高が急速に進み、日本のお家芸であった輸出の採算が急速に悪化していった。日本の主要製造メーカーが海外生産・現地調達化に舵を切る中、愛知製鋼でも海外に生産機能を移管する動きが激しくなった。この時、将来の海外要員としてS部長が抜擢したのが、アメリカ留学後経理に戻って仕事をしていた後藤さん。1995年28歳の時にアメリカに赴任し、最初は鍛造品の需要調査を担当した。しかし、当時愛知製鋼が技術指導をしていた現地の鍛造メーカーとの合弁話が持ち上がると、2年かかった先方との交渉から法人の設立までほぼ一人で任された。
「この時まで、名市大で学んだM&Aの知識が役に立つなんて思ってもみませんでした」
仲間のために頑張る
これが1997年のこと。しかし、この話には続きがある。この合弁会社はのちに愛知製鋼の100%子会社となったが、やがて業績が低迷。そして設立から19年目となる2016年、後藤さんが立ち上げたアメリカの子会社の立て直しを命じられたのが、後藤さん自身であった。前回は一担当者であったが、今回は子会社の社長として。
「業績回復には、全員がその気にならなければならないことは分かっていました。考えた結果、苦しい中頑張る従業員の皆さんにもう一頑張りいただくには、やはりまず自分が本気である姿を見せることが第一歩だろうと思いました」
そこで、後藤さんは自ら率先して工場を掃除したり、赤字の中でも仲間である従業員が少しでも働きやすい環境をつくるためにお金を使う、といったことを地道に続けていった。
それでも業績がすぐ上向くわけではなく、低い生産性をカバーするために1年近く大勢の従業員に週末の休日出勤をお願いしなければならなかった。従業員の努力に、十分な報酬でお応えできないことが後藤さんには辛かったという。
そんなある日のこと、休日稼働中に会社に行くと、一人の女性従業員が仕事を終えて帰る姿を見かけた。毎週のように週末会社に来てくれていることを知っていながら何もしてあげられない罪悪感から「休日に働いてくれてありがとう」と声をかけるのが精いっぱいだった。下手するなら無視されるか、睨まれたりすることを覚悟していた後藤さんに女性従業員から返ってきたのは「こちらこそ雇ってくれてありがとう!」の言葉ととびきりの笑顔だったそうだ。
その時、心のどこかのスイッチが入ったという。
「他の誰でもない、自分の努力が報われるかどうかもわからない今、それでも一生懸命会社のために働いてくれている、彼女のような従業員の皆さんのために、頑張った分給料をあげられる会社に絶対にしてやる!とものすごい闘魂みたいなものが沸き上がったことを昨日の事のように覚えています」
全員で頑張った結果、会社はそれから半年くらい先にはわずかながら利益を上げられるようになり、翌年に完全に黒字化したという。
愛知製鋼には「世のため、人のため」にお役に立ち続けるという基本姿勢がある。そしてこの一件以来、後藤さんは愛知製鋼の基本姿勢に「仲間のため」というひとことを付け加えた。2023年に代表取締役社長に就任してからも、それはまったく変わっていない。
今でも、後藤さんは恩師である塩見先生と会う。ある時、愛知製鋼の社長になったと報告すると、「お前が?」と驚かれたという。
「無理もありません。私自身、社長になるなんて思ってもいませんでしたから」
後藤さんには、名古屋市立大学の後輩に伝えたいことがある。
「自分の将来とか本当の適性なんて自分でも意外に分からないもの。だから多くの人と出会い、多くの機会に触れ、誰かのお役に立てるなら、何でもやってみた方がいい。最初は大変かもしれませんが、お役に立てたときに得られるものはとても大きいし、自分のためでは超えられない限界も誰かのためであれば超えられることがあるからです」
プロフィール
後藤 尚英(ごとう なおひで)さん
愛知製鋼株式会社 代表取締役社長
[略歴]
1989年 名古屋市立大学 経済学部経済学科 卒業
1989年 愛知製鋼株式会社
中学時代までは野球、高校時代はラグビーに打ち込んでいたという後藤さん。しかし、残念ながらケガのために引退。大学では寸暇を惜しんでおとなしく勉強……ではなく、家庭教師や食材配達、測量など、さまざまなアルバイトで忙しく過ごす毎日だった。「だって、学費を稼ぐだけでなく、学生生活も人並みに楽しみたかったですから。それにはやっぱりお金がかかりましたから(笑)」今でも趣味を尋ねられると、真っ先に「体を動かすこと」と答える。最近の趣味は温泉や一之宮(神社)巡りと毎日のウォーキング。