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卒業生の声

結婚から産休~育休~復職。 そして、次のステップへ。

たくさんの仲間に囲まれて

吉川寛美さん

3人兄弟の真ん中。小さな頃から、元気さでは誰にも負けなかった吉川寛美さん。将来、看護師になるという夢を抱き、故郷・新潟を離れて本学に入学した。

キャンパスライフはすべてが新鮮だった。当時、看護学部は短期大学部から四年制の学部に改組されたばかり。彼女と同様、全国から来た学生も多く、そんな友人と話をすると世界が広がるようだった。オーケストラ部では中学時代に経験したコントラバスを担当。練習は厳しかったが、年に2回の演奏会に向けて全員で力を合わせて頑張る毎日は楽しかった。

もちろん、看護師になるための勉強も面白かった。

「名古屋市立大学で印象的だったのは、一人ひとりの“意志”を大切にしてくれるということでした。国家試験の勉強でも、無理にあれをしなさい、これをしなさいとは言われません。その代わり、先生の扉はいつも開かれていて、何かを質問すると私が分かるまで徹底的に教えていただきました」。

彼女が公私ともに最もお世話になったのは、感染予防看護学の矢野久子教授。彼女の指導教員でもある。

学生時代のゼミで

「院内感染の危険性は授業でもよく出てきましたし、将来、どんな仕事をしても感染コントロールの知識は役に立つと思い、この分野を詳しく勉強しようと思いました」。

自分の手の皮膚や口内から菌を取って培養する実験では、人間にはこれだけたくさんの菌がいるのかとショックを受けた。

「矢野先生はとても明るい人で、先生と話をしているだけで元気になれました。勉強だけでなく、履歴書の書き方など、さまざまなことを矢野先生から教えていただきました」。

たくさんの仲間や先生に囲まれ、吉川さんは順調に夢に向かっていった。

結婚、産休、そして復職へ

吉川寛美さん

看護師の職場として彼女が選んだのは、名古屋市立大学病院だった。

「名古屋市立大学病院を選んだ理由は、知っている先生や先輩が多くて安心だったから。それに、1年目に基礎看護実習で訪れた内科病棟がとてもあたたかい雰囲気で、こんな病棟で働きたいと思っていました」。

希望どおり内科に配属になった吉川さん。その後は新病棟の完成とともに呼吸器内科・外科に異動し、3年目からはICUに配属。そして入職から4年目、彼女は結婚をした。

「看護師になった頃は、結婚したら病院を辞めて在宅看護などの仕事を探そうかと思ったこともありました。でも家族の協力もあり、そのまま看護師として働くことにしました」。

結婚から2年後に子どもができた時も、彼女は仕事を辞めるのではなく、将来の復職を前提とする産前産後休業と育児休業の取得を選んだ。

「当院のICUには、お子さんの世話をしながら看護師を続ける方が何名もいらっしゃいました。それに、何より私は仕事を通じてずっと社会と関わっていきたいと思っていますから」。

そして1年半が過ぎた2011年4月、吉川さんは名古屋市立大学病院に復職することになった。

「戻る前は、本当に仕事ができるのかという不安ばかりでした」。

吉川寛美さん

彼女が配属されたのは外科系小児科病棟だった。

「配属先を知ったのは復職の直前。特に私が配属になる病棟には外科系疾患の患者さんが多いため、ICU時代の心臓関連の参考書を出したり、小児科関連の本を借りたりして勉強しました」。

その一方、彼女には育児と仕事を両立できるかという心配があった。復帰前には何度も看護部を訪ねて仕事のイメージトレーニングをすると同時に、先輩の看護師から話を聞いた。

「夜、どうやって子どもを寝かしつけ、朝はどうやって起こしてますか? 仕事と家事の時間はどうやって確保していますか? など、すごく具体的に教えてもらいました」。

次のステップアップのために

吉川寛美さん

現在、彼女は子どもを『さくらんぼ保育所』(本学の学内保育所)に預けてから出勤する。

「私がお迎えに行けない時は、主人や両親にお願いすることもあります。私が仕事をしていられるのは、みんなの協力のおかげです」。

元気で明るい彼女は、今や小児科病棟に欠かせない人材だ。

2013年の3月で、彼女は本学を卒業してから10年の節目を迎える。今やベテラン看護師として指導的な役割を任されることも増えてきた。そんな中、彼女は考えていることがある。

「今、子どもは3歳ですから、10年もすれば、今ほど育児に時間をとられることもなくなります。その時、私は何をしているんだろう、と考えるようになりました」。

人生全体から見れば、子どもが手を離れるまでの10年よりも、その後の方がはるかに長い。

「その後を考えて、実は今、大学院に進もうかと思っています」。

吉川寛美さん

彼女は大学を卒業してからも、矢野先生の研究室によく顔を出していた。「本当は失礼と分かっているんですが」と言いながら、アポイントもなしに研究室を訪れたことも数知れない。子どもができてからは、子どもを連れて顔を出したこともある。そのたびに矢野先生は、吉川さんの大学時代と変わらない笑顔で迎え入れてくれた。

「もう一度、矢野先生の研究室で院内感染の勉強をしたいと考えています」。

せっかく名古屋に出てきて、たくさんの人に支えられて一生懸命勉強してきた知識。もっと活かさないともったいない。そして何よりも、本学で学んだ吉川さんは、自分の働く環境は自分の意志でつくるものだと思っている。彼女にとって、本学の『扉』はいつでも開かれているのだ。

プロフィール

吉川寛美さん
名古屋市立大学病院
[略歴]
2003年 名古屋市立大学 看護学部 卒業
     名古屋市立大学病院 入職
2009年 産前産後休業~育児休業
2011年 同病院 復職

子供の頃から誰かの役に立ちたいと考えていた吉川さん。16歳で初めて献血をして以来、献血回数は146回を数え、100回目の時は愛知県赤十字血液センター有功賞を受けたこともある。献血は、今や彼女のライフワークになった。本学入学後、彼女は近所のお寿司屋さんで4年間アルバイトをした。お店のご主人が善い人で、帰り際にお弁当をくれたため、食費がずいぶん助かった。お店の常連さんからも可愛がってもらい、入学当初、知人がいなかった彼女はとても嬉しかったという。本学の内外で、彼女は多くの人を支え、そして多くの人に支えられてきたのだ。

吉川寛美さん 学生時代の思い出の写真

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