卒業生の声
子どもの頃からの夢
酒井千草さんは、株式会社山下設計の中部支社で設計を担当する。彼女は小学生の頃から「家をつくりたい」と考えていた。なにしろ、小学校卒業時の将来の夢では「住宅は、家のことをよくわかっている主婦が設計するべき」と、大人顔負けの主張をしたほどだ。その後も夢に向かって順調に歩いてきた酒井さんだが、大学選びで迷った。
「建築を学ぶにあたって、芸術系の大学か、工学系の大学かで迷いました」。
どちらも好きだが、どちらも手放しで得意とは言いがたい。だからどちらも学びたい。迷った結果、両方を学べる本学芸術工学部の生活環境デザイン学科(当時)を選んだ。
「芸工を選んで正解でした」。
学部内の様々な分野の友人たちは、自分の想像を超えたアイデアにあふれていた。そんな友人と話すのはとても楽しく刺激的だった。また先生たちは、それぞれの分野で活躍するプロばかり。その仕事ぶりを見せていただいたり、将来について話を聞いてもらったりしながら、彼女は建築家の夢を大きく育てていった。
彼女が2年生の時の10月、一人の先生が教員に名を連ねた。それが、現在も本学で都市観察学と建築意匠学の研究を行う久野紀光准教授である。
「久野先生の設計された建築を見て、書かれた文章を読み、この先生に建築を教わりたい、この先生の指導のもとで卒制・卒論に取り組みたいと強く思ったんです」。
そして3年生になり、酒井さんは久野先生のゼミに入った。
厳しい格闘の場で学ぶ
久野先生は、常に建築の『原理』を大切にするプロの建築家。先生によれば、建築家は「良い・悪い」「美しい・美しくない」という主観的な判断だけで創作をしてはいけないという。なぜなら、どんな建築物も住む人や利用する人の存在と、その土地の風土を抜きにして語ることはできないから。だから工学という客観的な視点を以って、議論を積み重ねる。それが先生のポリシー。だから先生は、自分の研究室を議論のための「厳しい格闘の場」と呼ぶ。
「ゼミの中で先生は何度も学生に問いかけ、意見を求めてこられました。一瞬も気を抜けませんでした」。
彼女たちは必死に考え、自分なりの答えを導き出し、全員の前で発表した。
「少人数のゼミでそれぞれが発表し、互いに意見を出し合い、議論を重ねました。本当に、このゼミでは鍛えられました」。
しかし彼女は、建築を学ぶには、ゼミの2年間では短いと感じていた。もっと先生から学びたくて、彼女は大学院芸術工学研究科の博士前期課程に進んだ。
ここでも、彼女は久野先生から多くの影響を受けた。「名古屋から出て、違う環境に身を置いて学んでみたいと考えている。」という彼女に、先生は「世界から見たら東京と名古屋なんて“誤差”レベル。どうせなら海外に行きなさい」と、彼女もかねてから興味を持っていた本学の提携校であるトリノ工科大学への留学を後押ししてくれた。
「トリノで取り組んだ設計課題では、収支計画も踏まえた提案が求められるなど、日本での課題とは違った視点で学ぶことができました」。
また、最初は住宅の設計をしたいと思い建築の道を志した彼女は、本学で学ぶうちに建築全般に興味を持つようになった。そんな彼女に「それなら、この会社が向いているよ」と、山下設計を紹介してくれたのも久野先生だった。
「3年生から数えて4年間、久野先生には本当にお世話になりました」。
しかし、彼女が先生に学んだことを更に感謝するのは就職した後の話である。
人々の思いを紡ぎ形にする
山下設計は東京本社の他に、10カ所の事業所を持つ、大手の組織設計事務所。ここでは、学校・病院・庁舎・事務所ビルなど、公共建築物から民間建築物まであらゆるプロジェクトに携わることができる。それらのプロジェクトのきっかけとなる『プロポーザル』という仕事を彼女は1年目から7件も受け持った。
「プロポーザルとはお客さんが設計者を選ぶ方法の一つ。『コンペ』では建築物の具体的な提案内容が選ばれます。一方『プロポーザル』は、提案内容だけでなく、設計に対する考え方や仕事の進め方も含めた、パートナーとしての適正さによって設計者が選ばれます」。
入社1年目の彼女はプロポーザルの仕事を通して設計者としての考え方を学び、またその半分以上で勝利を収めた。
「久野ゼミで、自分の考えを言葉にし、人に伝えるという経験を何度も繰り返し、鍛えられてきた結果が発揮できたと思います」。
彼女が設計をする上で大切にしているのは、「全員でつくる」ということ。設計する側の思いだけでつくるのではない。そこに住む人や利用する人の声に耳を傾け、自分の考えを伝え、対話をしながらつくっていく。だから公共性の高い建築物の設計でも、関わる人々と意見交換をするワークショップを実施したり、その地域に長く住む方の意見の聞き取りに彼女自ら出かけたりするという。
「設計の中で、たくさんの人の思いを全てそのまま実現することはできません。でも、誰かが我慢して誰かが満足すればいいものでもないと思っています。各々の意見を紡ぎ合わせてより良いものをつくりあげるのが設計の仕事だと思います」。
ただ機能を持った建築物をつくることだけがデザインではない。彼女が久野ゼミで学んだのは、ものづくりのプロセスそのものをデザインするという視点なのだ。
そして彼女は、これからも多くの人々と一緒に、彼女にしかできない建築物の設計に取り組んでいく。
プロフィール
酒井千草さん
株式会社山下設計 中部支社
[略歴]
2008年 名古屋市立大学 芸術工学部 卒業
2010年 名古屋市立大学 大学院芸術工学研究科 博士前期課程 修了
株式会社山下設計 入社
芸術工学部の駐輪場のデザインは、酒井さんが所属した久野ゼミで基本・実施設計と工事監理をして具現したもの。久野ゼミの結束力はとても強く、ゼミが終わると、いつもみんなで美味しいものを食べに行った。また卒業制作や卒業論文、修士論文の際には、先輩が後輩にアドバイスし、後輩が先輩を手伝うという伝統もあった。酒井さんは大学から自宅が近かったため、卒業制作を手伝ってくれている後輩のために、彼女の母親が手づくりハンバーグや豚汁を差し入れたこともあったという。