沿革(歴史)
名古屋市立大学 医学研究科・医学部 沿革
1. 名古屋市立大学医学部の発足(昭和18年~)
名古屋市立大学医学部は、創立以来4,000名(平成20年4月現在)を越える卒業生を輩出し、それぞれが医療・研究・行政の各分野の第一線で活躍している。
その起源は、昭和18年に設置された名古屋市立女子高等医学専門学校である。当時の教授は4名、1学年定員120名、修業年限5年で、全国で初めての市立の医学専門学校であった。
戦後の医学教育改革に伴い、女子医学専門学校を基礎として、昭和22年6月名古屋女子医科大学(定員40名、修業年限4年)が設置された。その後、昭和24年に名古屋女子医科大学と名古屋薬科大学を統合し、昭和25年に現在の名古屋市立大学医学部(旧制)となった。教育制度の変更に伴い、昭和27年4月には新制医学部医学科を設置。昭和30年4月に、教養部(医学進学課程)を設置し、教養課程2年、専門課程4年の6年制医学部となった。
昭和38年4月には、医学部進学者の急増、医師不足を背景に、医学部定員を40名から60名に増員し、昭和50年4月には80名となった。
平成21年度入学生より、医学部定員は、文部科学省等が医師不足の深刻化に対応するための「緊急医師確保対策」及び「経済財政改革の基本方針2008」を受けた特例措置に基づき、12名増員し92名となり、さらに22年度には、地域の医師確保の観点から「地域枠推薦入学」の定員が3名増員となり、95名となっている。
その起源は、昭和18年に設置された名古屋市立女子高等医学専門学校である。当時の教授は4名、1学年定員120名、修業年限5年で、全国で初めての市立の医学専門学校であった。
戦後の医学教育改革に伴い、女子医学専門学校を基礎として、昭和22年6月名古屋女子医科大学(定員40名、修業年限4年)が設置された。その後、昭和24年に名古屋女子医科大学と名古屋薬科大学を統合し、昭和25年に現在の名古屋市立大学医学部(旧制)となった。教育制度の変更に伴い、昭和27年4月には新制医学部医学科を設置。昭和30年4月に、教養部(医学進学課程)を設置し、教養課程2年、専門課程4年の6年制医学部となった。
昭和38年4月には、医学部進学者の急増、医師不足を背景に、医学部定員を40名から60名に増員し、昭和50年4月には80名となった。
平成21年度入学生より、医学部定員は、文部科学省等が医師不足の深刻化に対応するための「緊急医師確保対策」及び「経済財政改革の基本方針2008」を受けた特例措置に基づき、12名増員し92名となり、さらに22年度には、地域の医師確保の観点から「地域枠推薦入学」の定員が3名増員となり、95名となっている。
2. 大学院医学研究科の設置と発展する昭和40年代以降(昭和36年~)
基礎教育棟
教育施設としては、昭和50年9月に医学部図書館・講堂が完成。昭和50年4月に学生定員が60名から80名に増員されたのに伴い、昭和52年5月には基礎教育棟が完成した。基礎教育棟は後に増築され、実習室等を有するものになり、学生の教育環境が一層充実された。
昭和36年3月に新制大学院医学研究科が認可され、この大学院設置に伴い、附属病院を含む、多くの研究施設は川澄キャンパスに移転、新築されることになり、昭和41年11月、624床の新病院が完成した。昭和56年には病院新棟(現在の西棟)が完成し、昭和58年5月に800床体制が確立したことで、名実ともに名古屋市民の健康を支える医学部附属病院になった。
3.「分子医学研究所」並びに「実験動物研究教育センター」の設立(昭和55年~)
分子医学研究所
医学の進歩により、従来の研究体制では遂行し得ない研究分野が生まれ、昭和55年10月に全学的な規模で新しい研究組織を検討する委員会が置かれ、川澄キャンパス内に分子医学研究所として8部門の大学附属研究所を設置する構想がまとめられた。その後、計画は5部門に縮小されたが、昭和59年5月に分子医学研究所が設置され、平成4年10月にはアイソトープ研究室が増築された。平成19年5月には第5部門が設置され、完
実験動物研究教育センター
平成4年に、実験動物教育研究センターがわが国でも有数の設備と広さを持った施設として建設された。平成20年度には、医学研究の基盤をなす実験動物に寄与する専任教授を擁する新たな分野が設けられる予定である。
4. 新研究棟の完成と大学院改組(平成8年~)
医学研究科・医学部研究棟
昭和33年~44年にかけて建築された研究棟は狭隘化・老朽化するとともに、基礎と臨床の研究棟がそれぞれ独立した建物であったことから教育・研究上の交流が制約されていた。そこで、これらを解消し、教育・研究の一層の充実を図るため、平成8年3月に現在の研究棟が完成した。
医学研究科・医学部研究棟
さらに、平成12年には医学研究科の改組を行い、独創的で自立した医学研究者、並びに高度の医療技術を持った人間味溢れる医師を養成できるよう4つの専攻系「生体機能・構造医学」「生体情報・機能制御医学」「生体防御・総合医学」「予防・社会医学」(12講座、36分野)となった。また、これに伴い、大学院の入学定員を27名から52名へ増員した。さらに、医学の先端化、細分化に従い、現在では45分野に増え、平成21年春にはさらに2分野が増設される予定で、教育・研究・診療のより一層の充実が図られている。
平成20年度からは医学研究科修士課程(定員10名)が設置され、大学院教育・研究のますますの充実が図られている。
平成20年度からは医学研究科修士課程(定員10名)が設置され、大学院教育・研究のますますの充実が図られている。
5. 国際交流(平成8年~)
ニューサウスウェールズ大学
近年、大学を単位とした国際交流が盛んになってきており、医学研究科でも平成8年12月に、オーストラリアのシドニー市郊外の州立大学である、ニューサウスウェールズ大学医学部と学術交流協定を結んだ。その後、平成14年3月には、同じくオーストラリアで最も歴史と伝統ある私立大学のシドニー大学と、同年11月には、中国江蘇省の医学教育・医療の中心的存在である、南京医科大学と学術交流協定を結び、以後毎年学生・教員の交流が続いている。
南京医科大学
また、名古屋市立大学としても、平成18年の法人化後、大学間交流に力を入れており、平成18年11月に、韓国のハルリム大学(ソウルの北東、春川市に位置する7学部を擁する総合大学)と学術交流覚書を交わし、平成19年には、ハンガリーのペーチ大学(ブタペスト南のペーチ市にあるハンガリー最大の大学)、スリランカのコロンボ大学(スリランカで最も歴史があり、医学部をはじめとする8つの学部と大学院をもつ)、さらに、フランスのパリ13大学(パリ13大学は、国立パリ大学(ソルボンヌ等13の大学の総称)の一部であり、1968年の大学改革によりパリ北部郊外に新設された)と学術交流協定を締結した。
今後、研究者・学生の交流がますます盛んになり、大学間の相互理解が深まることが期待される。
今後、研究者・学生の交流がますます盛んになり、大学間の相互理解が深まることが期待される。
6. 新病院の完成(平成16年~)
中央診療棟
平成16年1月に17階建ての最先端の医療機器と設備をもつ、附属病院の新病棟・中央診療棟が、平成19年5月には新外来診療棟が完成した。大学病院としての高度先進医療の推進と臨床教育の一層の充実が図られ、世界に発信する医学研究と優れた医療人の育成、地域医療への貢献がますます期待されている。
[ご案内]
病院の施設、機能の仔細については、名古屋市立大学病院のホームページをご覧ください。
[ご案内]
病院の施設、機能の仔細については、名古屋市立大学病院のホームページをご覧ください。
7. 教育体制の充実(平成19年~)
医学の進歩により、学生や研修医が修得すべき内容は質量ともに大きく変化し、増えている。そのために、医学・医療の教育研修を統括する総合教育センターを新外来棟4階に専用スペースとして設置し、平成19年に専任教授が設けられた。また、臨床実地学習の重要性から、市中病院医師約160名に臨床教授・臨床准教授に就任していただき、学生及び、研修医の教育に携わっていただいている。さらに、本学には、薬学部・看護学部が併存しているという特徴を活かし、3学部の協力連携による魅力的な医薬看合同カリキュラムが導入され、効果を上げ始めている。
シンボルマークの歴史
昭和25年に設定されたバッジ
図案は評議会において審議決定されたものである。 本学の欧文名たるNAGOYA CITY UNIVERSITYも評議会で慎重に研究協議された。
図案は評議会において審議決定されたものである。 本学の欧文名たるNAGOYA CITY UNIVERSITYも評議会で慎重に研究協議された。
昭和32年に作製されたバッジ
杉本健吉画伯のデザインにより、当時の本学が医・薬系の大学であったことにちなみ、心臓(ハート)を形どって人間の尊重を表現したものである。
杉本健吉画伯のデザインにより、当時の本学が医・薬系の大学であったことにちなみ、心臓(ハート)を形どって人間の尊重を表現したものである。
関学50周年(平成12年)を記念して作成されたマーク
芸術工学部川崎教授のデザインを基にシンボルマーク制定委員会により平成13年11月に制定された。
NAGOYA CITY UNIVERSITYの頭文字NCUをシンプルに組み合わせたものである。
芸術工学部川崎教授のデザインを基にシンボルマーク制定委員会により平成13年11月に制定された。
NAGOYA CITY UNIVERSITYの頭文字NCUをシンプルに組み合わせたものである。