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寄稿

セピア色の一枚の記録から  ―「日本古代史研究会」の思い出―

「日本古代史研究会」名のメモ書き

「日本古代史研究会」名のメモ書き

 平成30年の暮れ、突然に瑞山会役員の中野重治さんから電話。在学中に構内の古墳から採集した土器と「日本古代史研究会」名のメモ書きが大学に残されていたことがわかり、話を聞いて記念史のコラムに掲載したいとのことでした。卒業して45年、学生時分の記憶の殆どが忘却の倉にあり、戸惑いと驚きの感を覚えました。後日、メモのコピーが送られてきますが、自分が書いたものと認識しつつも、それを書いた記憶は・・・。
 1年生の後半、高校の先輩から誘われ、経済学部だからということで生協の組織部というところでお手伝いを始めました。その部屋は食堂の一角にあり、食堂は古墳に隣接。高校時代には部活で近隣の遺跡の発掘調査に参加させてもらっていたこともあり、ごく自然に墳丘周りをうろついていました。よく言えば踏査ですが。今回、残されていた土器を実見、メモに書かれた認識と若干異なりますが、埴輪片と用途不明の土製品で、古墳の祭祀に使われたかも?という感じで、追って識者の見解を伺うのが妥当かと思いました。メモには切株の根元の20~30㎝下から出土したとあり、恐らく古墳の外周で既に削り取られた柔らかい法面に土器が露出しているのを見つけて採集、その後、所見をメモ書きして併せて大学事務に提出したんだろうと思います。
 メモの「日本古代史研究会」ですが、2年生の時に結成して何となく消えてしまったのではなかったかと思います。戦後、静岡の登呂遺跡の発掘を契機に、それまでの皇国史観から解放されて祖先の歴史を土の中から発見しようというロマンを求めて、かつ高度経済成長期の開発に伴い、多くの遺跡調査が行われました。当時、高校生はロマンを求めつつ、体のいい労働力として発掘に参加しました。私もその一人でしたが、恥ずかしいことに少しばかりの発掘体験だけで自分にもやれると思いあがり、研究会を作ろうとしたことです。私が入学した年は、大学紛争で東大が入試を中止した翌年で、平穏ではあるものの、まだ余韻も残るといった雰囲気もありました。私自身も何か新しいことを、の気持ちがあり、研究会への参加を呼び掛けたところ、何名かの方々の賛同を得ることができ、大学に研究会の登録をしました。何回か勉強会をやったような・・・しかし確たる展望を持たない中での活動故に徐々に尻すぼみになっていったような気がします。大学に提出したメモには「S46.6下旬」の記載があり、そのころのことかと思います。集ってくれた方、夫々の記憶に残っているのなら、そして当時の時代相まで振り返ることができればまた楽しみなことです。


八高古墳のこと

   前方後円墳 古墳時代前期末 現存長約50m、高さ約6m (本来の墳丘長 約70m)
      ・・・前方部が西南を向くが前方部が大きく削平され、後円部も改変されている

参考資料

参考資料

 魏志倭人伝にある邪馬台国卑弥呼と対峙したとされる狗奴国は、美濃・尾張の濃尾平野にあったとする説があります。当時からこの地域は独自色が強かったようで、3世紀中ごろに畿内を中心に前方後円墳が造られますが、美濃・尾張以東では前方後方墳が多く造られました。しかし4世紀中ごろには畿内からみた東国地域も前方後円墳に切り替わり、ヤマト王権を中心としたネットワークに組み込まれ、古墳の墳形や大きさなどによって地位の序列化が進められたと考えられています。その中にあって名古屋市南部すなわち市大のある瑞穂台地および熱田神宮から金山・大須に至る熱田台地にはずっと古墳が造られず、4世紀末になってようやくこの市大山の畑キャンパスのある地に前方後円墳の八高古墳が造られます。大阪平野で巨大古墳が造られ始めたころに瑞穂台地の盟主は初めてヤマト王権と手を結ぶことになったようです。その後、半世紀にわたって高田古墳(旧県大構内、滅失)、八幡山古墳(円墳、鶴舞公園東)に盟主が引き継がれ、近隣には一族や盟友の小円墳が造られます。山の畑キャンパス内にも八高2号墳が残っています。そして6世紀に入ると盟主の拠点は熱田台地に移り、巨大な勢力(尾張氏)に成長していったようです。

参考資料 土器

参考資料 土器

 「八高古墳」の名称は史跡名称登録等の都合で、この古墳が当時、第8高等学校の敷地内にあったことから命名されたと想像されます。残念ながら古墳の現況は前方部の殆どが削平され、後円部もかなり改変されています。1950年にアメリカ軍が撮影した航空写真では原形の輪郭が保たれていることから、当時国内各地で戦後の復興開発や土取りで多くの古墳が壊されていったように、八高古墳も食堂建設の犠牲になったようです。
 恐らく八高古墳はこの瑞穂台地に造られてから100年も経たないうちに被葬者の名も忘れ去られたと思われますが、にもかかわらず土地の人たちによってずっと守られてきました。それが1500年余経った現代に無残な現況の姿と化しました。しかしそれらのこと全てをこの古墳はずっと記憶してきたわけで、私たちは市大キャンパスという土地の記憶(文化遺産)として保存・記録し、市大という教育・研究の空間内にあることを縁に長く守り伝え、活用されていくよう努めることが大切かと思います。

補足 私自身いくつかの参考資料を持っていましたので、この前戴いたものを含めて以下に列記します

参考・引用文献

藤井康隆 「名古屋台地古墳時代の基礎資料(6)-八高古墳墳丘の復元的検討-」『研究紀要』第5号2003 名古屋市見晴台考古資料館
藤井康隆 「名古屋台地古墳時代の基礎資料(1)-八高古墳の埴輪-」『研究紀要』第3号2001 名古屋市見晴台考古資料館
和田晴吾 「古墳時代の時期区分をめぐって」『考古学研究』34-2 1987 考古学研究会
白石太一郎 「考古学からみた東国とヤマト王権―尾張の役割を中心に―」『東国尾張とヤマト王権』2017 近つ飛鳥博物館
名古屋市博物館 『尾張氏 志段味古墳群をときあかす』2012 名古屋市博物館
森本徹・他編 『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』2013 近つ飛鳥博物館展示ガイドブック
吉田富夫他 『名古屋の史跡と文化財』1970名古屋市教育委員会
藤井康隆 「古墳時代中期における尾張の首長墳と小古墳」『古墳時代中期の大型墳と小型墳』2002 第10回東海考古学フォーラム浜北大会・静岡県考古学会シンポジウム
赤塚次郎 「東海」『中期古墳の展開と変革―5世紀における政治的・社会的変化の具体相(1)』1998 第44回埋蔵文化財研究集会
大塚康博 「第4章古墳時代第1節 名古屋の中央部と周縁部」『新修名古屋市史第1巻』1997新修名古屋市史編集委員会
藤井康隆 「八高古墳」『新修名古屋市史資料編考古1』2008 新修名古屋市史編集委員会
服部哲也 「八高古墳」『愛知県史資料編考古3古墳』2005 愛知県


経済学部7回生 昭和49年(1974)卒 木村ゼミ
伊藤 利和