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同窓生インタビュー

仲谷貞子氏を囲んで

■平成31年(2019)3月17日  仲谷貞子氏宅にて
  仲谷 貞子氏  名古屋市立女子専門学校2期生 昭和26年(1951)卒

■聞き手
 吉田 一彦 人間文化研究科教授 副学長(大学史編纂・資料室)
 浅岡 悦子 人間文化研究科研究員
 手嶋 大侑 人間文化研究科研究員

◇名古屋市立女子専門学校

吉 田:

インタビュー

インタビュー

名古屋市立大学開学70周年ということで、名古屋市立大学70年史を作ることになりました。これには名古屋市立大学の前身校のことについてもきちんと記述したいと考えています。今日は、名古屋市立女子専門学校の頃のお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。萱場キャンパスにあります名古屋市立女子短期大学の記念室に、名古屋市立女子専門学校と名古屋市立女子短期大学の卒業アルバムが全部保管されておりますが、仲谷様のご自宅にもご自身の卒業アルバムが大切に保管されています。今日はそれを拝見しながら、その頃のお話をお聞かせいただきたいと思っております。仲谷さんは女専(名古屋市立女子専門学校)の卒業生でいらっしゃいますね。

仲 谷:

そうです。被服科の二回生です。アルバムでは……これが私ですね(指さす)。当時は生活科と経済科と被服科があって、私は被服科です。

浅 岡:

被服科では和裁と洋裁どちらをされていたんですか。

仲 谷:

どちらもです。高等学校と中学校の家庭科の先生になれるわけですから、全部やらなければいけませんでした。

吉 田:

卒業すると高等学校と中学校の先生になれる教員免許状がもらえたんですか。

仲 谷:

そうそう、そうです。それがもらえるんです。ですから、卒業後は学校の先生になって高等学校に行かれる方が多かったですよ。私は、身体が小さかったので。 県庁や市役所の試験があって、県庁の試験を受けて県庁に入りました。県庁では衛生部に配属されていましたが、桑原幹根氏が初当選して知事になられた時に秘書室へ異動になって、知事の秘書をしていたんです。

吉 田:

そうですか。卒業生の方々は、教員になる方や、市役所や県庁に勤める方が多かったんですか。

仲 谷:

経済科の先輩は市役所に勤めて市長の秘書になっていました。それから、東海銀行に勤める方が多かったですね、経済科は。生活科の方は、家庭科の先生になった方が多かったように思います。

吉 田:

名簿に名古屋大学医学部と書いてある方は、卒業した後にさらに名古屋大の医学部に進学されたんですか。

仲 谷:

そうだと思います。

◇女専時代の思い出

吉 田:

名古屋市立女子短期大学も、その前身の名古屋市立女子専門学校も大変な名門校だったと聞いています。入学試験の受験勉強は大変でしたか。

仲 谷:

受験勉強はそうたいしてはしなかったように思います。当時は、北区に住んでいたのですが、学区ごとに、この学区の人は名古屋市立第三高女とか、県一とかというように進学する道筋がだいたい決まっていたんです。市立の高等女学校は三つあって、そこは学力も意欲もある人が多くて、そこから女専に進学する人が多かったですね。

吉 田:

第三高女から女専に進学されたんですか。

仲 谷:

そうです。

吉 田:

第三高女の出身の人は優秀な方が多くて、そのまま女専に進学される方が少なくなかったんですね。女専は、最初、校舎がなくて、中区の菊里町にあった菊里高校の前身(名古屋市立第一高等学校〈新一〉、後の菊里高校、菊里町の旧校地には現在名古屋市立中央高校)の校地に間借りしていたと聞いてますが、どのような感じだったんでしょうか。

仲 谷:

一緒の建物の同じ部屋でね、それをこう衝立で仕切って間切りして勉強しました。専門学校なのに、新一の校舎に間借りでした。家庭科の中高の教員免許を取られる方は、教育実習はお隣の高校の校舎に行っていましたね。

浅 岡:

被服科ではどんなことを勉強されたんでしょうか。

仲 谷:

洋人形を作る授業もありましたし、各科そろって教育学の勉強なんかもありました。卒業制作には、留袖を作りましたね。

吉 田:

卒業制作は晴れ着の制作で留袖ですか。戦争より前の、戦前の日本が豊かだった時代の伝統を引く教育だったんですね。卒業アルバムの写真を拝見すると、みなさん同じような服を着ていますが、制服があったんですか。

仲 谷:

制服はなかった。セーラー服を改造して作りかえました。着るものがなかったからね。だからセーラー服のヒダのスカートをね、普通のスカートに作りかえたんです。被服科ですし、お裁縫はできましたから。

吉 田:

なるほど。

仲 谷:

女専の時は、先生の講習会というのがあって、県の教育委員会がそれをやっていて、その事務のお手伝いのアルバイトをしたことがあります。それから丸善のアルバイトもしました。丸善のは昼食付きの良いアルバイトでしたね。

浅 岡:

お友達と遊びに行ったりとかはいかがでしたか。

仲 谷:

お茶会をしたりとか、そういうことはしたんですけど。名大生の人やら、いろんなアルバイト先の人も来て。

吉 田:

そうですか。お茶会ですか。

手 嶋:

学科が違う、経済の人とも交流はあったんですか。

仲 谷:

それはありましたよ、同じ学校のなかだから。それに高等女学校の時のお友達が経済科にいたし。

浅 岡:

お友達との思い出をもう少しお聞かせいただけたらと思うのですが。

仲 谷:

その頃ダンスがとても流行っていました。新栄にダンス教室があってね、学校の帰りにそこにお稽古に行きました。社交ダンスが踊れない人が来てて。名大とか名市の学生とかがいました。柳橋だったかなあ、ダンスする所は。

吉 田:

そうですか、新栄の教室でダンスのお稽古をして、それから柳橋にダンスに行くんですね。

仲 谷:

友達とは旅行にも行きました。

◇戦争の時代、戦後の時代

仲谷哲郎(御子息):

高等女学校時代にはできなかった青春を、女専でしてたんでしょうね。高等女学校時代は戦争でしたものね。第三高女の時に学校が空襲にあったんです。

吉 田:

そうなんですか。

仲 谷:

そうです。東片端の山吹小学校の隣に第三高等女学校があったんですけど、そこに、B29が来てね。防空壕に爆弾落としていくんです。学徒動員で、最初は三菱の工場に通って行っていたんですが、そこが危ないからということで、学校で作業をやっていたんです。それで爆撃されました。第三高女が焼けてしまって、その時は筒井小学校に間借りしました。

吉 田:

そうですか。その時も間借りだったんですね。

仲 谷:

高等女学校時代は疎開もしていました。岐阜県の関市に。

吉 田:

戦争で名古屋は焼け野原になってしまったんですよね。

仲 谷:

そう焼野原です。

吉 田:

女専を卒業されて、それで県庁に入ってそこで仕事をされて。知事の秘書というのは大変なお仕事ですね。

仲 谷:

そう。もうね、経済界の方とか、いろんな立派な方がいらっしゃって。偉い人ばかりで大変でした。主人(後の仲谷義明元愛知県知事)がちょうど自治省出身で、岐阜県庁に務めていまして。愛知県の副知事さんに挨拶に来た時に案内したのがきっかけで主人とも知り合ったんです。

吉 田:

そうでしたか。

◇同窓会のこと

吉 田:

ひさぎ会(名古屋市立女子短期大学同窓会)の会長を務められていたと伺いました。

仲 谷:

そうですね。私は二代目の会長でした。名市短の同窓会には、いつも行っているんですけど、ここのところは同級生には会えなくて、今は短大の卒業生の方が多いですね。

手 嶋:

ひさぎ会の名前の由来は。

仲 谷:

ひさぎ会は『万葉集』から。「はまひさぎひさしくなりぬ」というのから取ったって聞いています。ここにひさぎ会の資料があります。

手 嶋:

これですか。「波の間ゆ見ゆる小島(こしま)の浜(はま)久木(ひさぎ)久しくなりぬ君に逢はずして」(巻十一、2757)。この「浜ひさぎ」からとってつけられているんですね。

仲 谷:

そう、『万葉集』からです。

吉 田:

卒業アルバムには学園歌がでてますね。

仲 谷:

「はるかなる~」っていうのですね。

吉 田:

この歌は、みんな歌ったんですか。

仲 谷:

歌ったんですよね。

吉 田:

今でも歌えますか。

仲 谷:

はい。でも今はもう歌う機会がないですね。

吉 田:

ひさぎ会の集まりの時に皆さん歌いますね。その時ですね。

吉 田:

今日は、長時間にわたり、貴重な思い出のお話をお聞かせいただき、どうもありがとうございました。