特集(寄稿・座談会など)
特集(寄稿・座談会など)
■令和2年(2020)7月21日
和田 昌也氏 和田クリニック院長 第3代瑞友会会長 元名古屋市衛生局長 1期生 昭和31年(1956)卒
佐々木 實氏 名古屋市立大学名誉教授 元医学部長 4期生 昭和34年(1959)卒
■聞き手
吉田 一彦 人間文化研究科教授 副学長(大学史編纂・資料室)
山本 喜通 名古屋市立大学名誉教授(瑞友会会長)
飛田 秀樹 医学研究科教授(瑞友会副会長)
吉 田:
今日は、大学草創期の頃の学生時代のお話、卒業されてからのお若い頃の御活躍の時代のお話、それから和田先生は医学部創立50周年記念事業の実行委員長を務められておられるので、その頃の思い出話をお聞かせいただければと思っています。また、佐々木先生には、学部長時代の御苦労とか、将来をどのように展望していたかというお話をお聞きかせいただけたらと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
吉 田:
和田先生は1期生でいらっしゃるんですか。
和 田:
そうです。あの頃は入学する時、医学部じゃなくて、医学部進学課程というのに入ったんです。
吉 田:
学部に入学するには、もう一度試験に合格して、医学部に進学するということですか。
和 田:
そうです。新制の人はそのようにして医学部進学課程に進学しました。
佐々木:
昭和25年(1950)は、旧制の医学部がまだあったんです。だが新制の人には医進課程しかなくて、2年の進学課程修了後、試験に合格して、医学部に入ったんです。
和 田:
この入学試験は全国統一の制度だったから、名市大へ行かなくても神戸でも京都でも、全国津々浦々、どこの医学部でも受験可能だったからね。
和 田:
あの頃は名市大の学校自体が、今の薬学部のところにありました。
佐々木:
田辺通りですね。
和 田:
名大の医学部の先輩に、名市大、そんなところへ行って医者になれると思っておるのかね、と言われたことがあった。それで、僕は名市大へ入ってから、何くそということで頑張った。新制の1回生ですからね。
吉 田:
先生の頃は二期校じゃなかったですか?
和 田:
一期校と二期校との間、つまり中期日程ということかな。
佐々木:
進学課程の試験はそうだったですね。
吉 田:
その最初の入学の頃は、医専や女子医科大学の女子の学生さんたちと新制の医学部の医学進学課程に入学した人たちが一緒に教室で勉強したんですか。
和 田:
それはまずなかったですね。医学進学課程では薬学部の人達と一緒だった。2年間だけは単位も一緒だったので、薬学部の人達と一緒に講義を受けたんです。
吉 田:
医薬教養課程というやつですかね。
和 田:
そうです、そうです。
吉 田:
それが後に教養部になります。
佐々木:
だから薬学部に入った人でも、2年後には医学部の入学試験を受けることができたわけです。
吉 田:
そうですか。
佐々木:
その入学試験が相当きつかったんです。これは、うちの薬学部の人達以外にも全国の理系の教養課程を終わった人が受けに来られた訳ですからね。そのかわりうちの進学課程にいた人達もよその医学部に受けに行った。そういう状況でしたね。
吉 田:
今から考えると面白い制度というか、ちょっと変わっているんですね。1 回合格して、名古屋市立大学に入学しても、もう一度受験があるみたいな感じですね。
和 田:
そう、2年で、最終的に医学部へ入れるかどうかというような。
佐々木:
実は、当時学生定員は40名だった。ところが、50名ぐらいは入れておったかな。
和 田:
2 割までは多く採れたから、たしか1回生は47名だったな。
佐々木:
それが我々のときから学部入学は、1割増までしか認めないという通達が来て、2年間一緒に勉強してきた連中が、その中で確実に一割は落ちるということになった。
吉 田:
厳しい世界ですね。
佐々木:
その当時の医学部長に嘆願書を出したが、当然、駄目だった。
佐々木:
その代わり、他の大学に受かって、そっちへ行ったのもいたし。
吉 田:
行ってもらうと席が空くわけですね。
佐々木:
よそから受けに来たのも入っていた。しかし、その中に入らん人は数名から10名ぐらいいたかな。これは次の学年へ行ったのもいるし、3年〜4年で諦めた人もいたかな。そういう惨めな状態だったね。
吉 田:
厳しいですね。
和 田:
君は東大でも受けられるよと言われた人が、朝、大学に出てくると鼻血が出ていて、押さえながら頑張ってた。勉強のし過ぎで。それで、しかし本当に東大の医学部へ入っていった。
吉 田:
寝ていられなかったんですね。
佐々木:
進学コースの終り頃は同級生同士の張り合いでした。
和 田:
全部が競争相手。
佐々木:
そんなふうだったね。
吉 田:
薬学の教養科が廃止になって、教養部になるのが昭和30年(1955年)のことで、そのとき医学部への進学の試験がなくなったのを契機に教養部になったと過去の大学史には書かれています。
佐々木:
そうですね。そこから医学部志望の学生にもゆとりが出来た訳です。
和 田:
大学に合格すると、薬学はそのままずうっと4年間。医学部進学課程の者は、2年後の試験を受からんことには宙ぶらりん。どこへも行けないから、1年待ってもう一度受けるか、よそへ行くかということだった。
吉 田:
専門科目ですが、女子の先輩たちは、皆さん大体年上なわけですか。
和 田:
そうですね、女子医科大学の女医さん候補とは臨床講義を一緒に受けたことがあります。専門課程の3年生、4年生には一緒の合同講義があって。
佐々木:
臨床へ入ってから、2学年一緒の合同講義というのがあってこれは医学部の3年生と4年生でした。それは臨床講義といって、本当に患者さんを講義室まで連れてきてもらって、そこで代表(当番)の学生が出て、診断をつけてから、教授からいろいろと質問を受け、診断名や治療法など聞かれる、そういう臨床講義というのがあって。これは楽しかったですね。
佐々木:
臨床講義室は階段教室になっていて教壇の前は広くて、そこへベッドのまま患者さんを導入出来る。そういう講義室だったな。
和 田:
そう、今そこは名古屋市博物館になっている。あそこが名古屋市民病院だったからね。そこに我々の臨床の場というか、病院があったところだから。3 年生、4 年生になると、あそこでやった。
佐々木:
そうだったですね。
吉 田:
そうすると、今の薬学部のある田辺通りのキャンパスに普段はいて、臨床講義になると、病院のあった今の博物館のところに移動ということですかね。
和 田:
そう。その通りです。
吉 田:
その当時の名古屋市民病院って、立派で大きかったんですか。
和 田:
そう。3階建てのね……。
佐々木:
立派と言えるかどうかは分かりませんが、当時としてはね。
和 田:
どうしてかというと、僕が名市大の医学進学コースへ入った頃は昭和25年ですが、名古屋大学の図書館も戦争で焼けて、新しい文献とか戦時中の文献なんかを調べようと思うと名市大へ来たり。名市大の学生が頼まれて、僕は大分調べましたけどね。
吉 田:
そうですか。その名古屋市民病院は、戦前に建てたのが戦災で焼けなかったんですか。
和 田:
そうだったな。
吉 田:
じゃあ、本も焼け残ったんですね。そうですか。
佐々木:
特色と云えば、名古屋市立大学の建物は、みんな木造で1 階建て。本部棟だけは、田辺通りにあったけれど、2階建て、その市民病院だけが鉄筋。
和 田:
そう、鉄筋で、一部木造だったから。一見、見たところ3 階建てだけれども、鉄筋のように見えたな。
佐々木:
その横に小さな木造建ての臨床講義室が造ってあって、そこで3年生、4年生が臨床講義を受けたというわけ。一方、田辺通りの木造の建物は、冬なんかの講義は、みんなオーバーを着て、マフラーをして。風がひゅうひゅう入ってきて。それで、学部長が心配をして、せめてストーブの1つぐらいは入れてやってくれ、ということで、教壇の横にストーブが1つだけ入りましたね。大きな部屋にストーブが1つだけだったもんだから、休みになると、みんなかじかんだ手を暖めに輪になっていました。
和 田:
まだストーブがあったわけだね。我々の時はなかったな。
和 田:
進学課程の思い出としては生物実習とかあって、カエルを持ってこいと言われて。校庭の爆弾の跡に水がいっぱいたまっていて、そこにカエルがいたので捕まえてもっていったんですわ。
佐々木:
寒いことで記憶に残るのは、解剖実習ですね。あれは夏はやらない。今は夏でも冬でもやるけどね。それで、冬になると医学部の1年生で解剖実習が始まるわけでそのときの、寒さというか、冷たさというのは骨身にしみたね。この時も学部長の計らいで火鉢が用意されていて、手を暖めながらやったね。
和 田:
僕らの頃は、寒いなんてこと言っておられんでね。それでも解剖は熱心にやりました。ストーブも火鉢もなかったけど。
吉 田:
3年間ですけど、少し違いがありますね。
和 田:
我々は戦争を知っていますからそんな火鉢なんていう……。
吉 田:
戦争のときの苦しい生活に比べれば……。
和 田:
あの頃は。
佐々木:
和田先生の学年は新制の一回生だったからいろいろ苦労した人が多かったようですね。
和 田:
そう。
佐々木:
年格好もいろんな人がいましたね。
和 田:
僕らの頃は、高等師範学校卒で、中学・高校の先生の資格を持った人だとか、いろんな人がいた。
吉 田:
戦争でいろいろごたごたしていて、順調に普通に学年が上がっていったわけじゃないわけですよね。
和 田:
だから、休講になると、夜は高校の理科の先生をやっていた人の答案をみんなで手伝いました。
佐々木:
いろんな人がいました。我々が見ていても。
吉 田:
どんな方がいらっしゃったんですか。
和 田:
いろんな職業を経験してきた人がね。戦争に行った人もいたかな。それはともかく、もう既にどこかの先生という人はいたね。
佐々木:
先ほどの進学課程の入学試験でも、中間校だったから、倍率が無性に高かったね。
吉 田:
今の薬学部みたいなもんですね。
佐々木:
そう。大体20倍から、多いときは35倍とか、そんな倍率でしたね。我々の時は24倍だった。だから、試験場に入って、50名いる中でこの中で受かるのは2人ぐらいかなと思ったら、ちょっと緊張したね。だがしかし、その頃はよその学校も受けておるからね。抜ける人はいた。しかし、いずれにせよ、実際に残るのは、1部屋で2人ぐらいで、受験場の部屋だけは無性にたくさんあったね。
和 田:
理科系の高等学校とか、高等師範学校とか、単位さえあれば受けられたでね。だから、医学進学コースの3年生というか、今でいうと医学部の1 年生というのは、旧制の第八高等学校を卒業した人やら、広島高師だとか、岡崎高師だとか、東京高師だとかの卒業生もいっぱいおりましたね。
吉 田:
その方たちは、いきなり教養課程なしで医学部を受けるんですか。
和 田:
そうです、そうです。
吉 田:
もう既に広島高師とか東京高師を卒業しているという人が……。
和 田:
医学進学コースに行ける単位がちゃんと取れていれば、受験資格がありましたので。
吉 田:
なるほど。じゃあ試験はとても難関で厳しかったですね。
佐々木:
そのような人は我々のときは、さすがにもういなかったですね。そういう人は、最初の二、三年間だったということですか。
吉 田:
さっきおっしゃった24倍というのは、医学進学コースに入るときの倍率だったわけですね。
佐々木:
そうです、今でいう教養課程に入るときのことです。
吉 田:
先生方は、名古屋生まれの名古屋育ちなんですか。
和 田:
私は春日井。
佐々木:
私は岐阜県の加茂郡。高校は県立八百津高校で岐阜県の中でも一番小さな学校でしたね。学生総勢300人にも満たないそういう高校でした。だから、名市大に来て全校舎が木造でも全然驚かなかったね。いいところ。
和 田:
我々は戦争体験がありますからね。爆弾の体験もそうですけれども、遠州灘に航空母艦が来て、そこから飛び立った飛行機の機銃掃射でやられました。あと1メーター違っていたら、まず今はおらなかったな。
吉 田:
たまたま外れてくれたわけですね。
和 田:
そうそう。僕は、春日井から中央線で通っていたけど、空襲になると列車はストップしますからね。矢田川、庄内川の鉄橋は歩いて渡った。
吉 田:
そうなんですか、鉄橋を。
和 田:
今、渡れと言われても、とても渡れません。だから、今の中央線でいうと新守山の辺で空襲にあうとそこでストップしてそこから降りて。
吉 田:
大学に通学するときは、鶴舞で降りてきたんですか。
和 田:
そうです、そうです。
吉 田:
鶴舞から田辺通までバスですか。
和 田:
電車。
吉 田:
市電ですか。
和 田:
今の瑞穂通3丁目まで市電がありましたからね。
吉 田:
難関の試験を合格して医学部に入って、卒業されて、その先はどうされたんですか。
和 田:
僕は1回生ですからね。同期の3分の1は、名大とか金沢大とか京大とかへ行きました。
佐々木:
そうですか。確かに初めのうちは、名市大に残る人が少なかったですね。
和 田:
3分の1は名市大の医局へ入って、あとの3分の2は名古屋大学とか金沢大学とか各地の病院に入局しました。
佐々木:
だから我々が卒業した頃は、名市大の中であまり先輩を見掛けなかったな。
和 田:
卒業して医者になるにしても、僕らの頃は1年インターンがあって、その 年間は無給だったから。
佐々木:
その通り、無給でした。厳しかったですね。
飛 田:
それが学生運動のきっかけですね。
吉 田:
無給だとどうやって生活するんですか。
和 田:
私の場合は、自宅から通っていたから。
吉 田:
食事は一応、今までどおり家でということで……。それでは和田先生は、どこでインターンをされましたか?
和 田:
インターンは当時の国立名古屋病院、今の名古屋医療センターというところ。だけど、鉄道病院とか、豊橋市民病院とか、田舎へ行けば手当をちょっともらえて。自動車免許を取る費用を出してもらえたり。
佐々木:
そう、我々のときも、へんぴな田舎の病院へ行けば、ちょっとした手当がもらえたところがあったね。
吉 田:
それは大きいですね。
和 田:
名市大病院でインターンをやるとか、国立とか名古屋大学とか、そういうところへ行ったら、もう何もくれない。だから、インターン生にはちゃんと生活を保障せよという運動をその後もやりましたね。
吉 田:
で、1年インターンが終わると…
和 田:
国家試験。それが通らんことには医者にはなれない。
吉 田:
大変ですね、それ。今でも国家試験、大変みたいですけど、結構みんな受かるみたいなんですけど、その頃はどうだったですか。
和 田:
普通に勉強しておれば通るんですけどね。1人か2人、多くて3人ぐらいは落ちる人がいたかな。面接もあったね。面接官が優しい先生ならいいけれども、何か突っ込まれて舞い上がっちゃうと、さらに突っ込まれる。
佐々木:
確かに面接がありました。レントゲン写真など見せられるのがあって、実際にどういう疾患か聞かれる。今でもやっているかな。
飛 田:
面接はないです。
和 田:
今はないでしょう。
飛 田:
また、Post-CC OSCEでそういう方向ですよね。
佐々木:
国試では我々の学年は全員受かりましたね。実はそれから先の学年も名市大は4〜5年間、全員合格だったと思います。
吉 田:
そうですか。
佐々木:
そういう大学は、その頃、うちの大学と東大ぐらいしかなかったことを覚えています。しかも、続けてというのは。それがどうしてかということですけどね。我々は大学病院(市民病院)で、インターンをやった。6人だったかな。大学病院だといろんな情報が入りやすいからね。それを地方に分散しておる連中へみんな流して、国試、頑張れよ、をやりました。さすが、全員受かりましたね。
吉 田:
クラスの仲間の結束が固かったんですかね。
佐々木:
それで、そういうことを下の学年にも言ったんかな。で、順番に頑張っていった。ところが、途中で消えたね。四、五年続いて。
和 田:
それと、私が思うに真面目だったな、みんな。
佐々木:
そうだね。
和 田:
どんな講義でも、8割以上は受けておった。
吉 田:
名市大の学生は真面目なんですかね。
佐々木:
まあ、真面目だったんじゃないかな。
吉 田:
じゃあ、和田先生は、国立名古屋病院の前身でインターンをされて、国家試験を合格した後も、同じところに勤めていたんですか?
和 田:
いや、名市大の内科へ入りました。
佐々木:
あの頃は、確か内科は1講座だけでしたか。
和 田:
そうです。大学院をつくることになってから、2つの講座になった。それで、少したったら、助手の先生が急に辞められたのでそのあと助手になったわけです。
吉 田:
そうなんですか、何年からですか。
和 田:
大学院ができた…昭和36年(1961)でしたか、助手の先生が、本当に急に辞められて。それで、その頃博士論文が大体できていたのが僕しかおらなかったんで、教授に呼ばれて、やれるかといわれて。それで助手になったんですが、電子顕微鏡を買うからそれを動かすこと、という条件が付きました。
佐々木:
ああ、そうそう一生懸命やっていましたね。
和 田:
その頃、1,000万円だったということだが、今だと電子顕微鏡を買うと、技師をちゃんとつける予算もつくんだけれど、当時は機械だけ買うのが精一杯だったもんだから、それを動かすのに、助手になったらお前やれと言われて。
佐々木:
あの頃は、1台の電子顕微鏡を動かすのもなかなか大変だったからね。
和 田:
今だと、工業大学の物理とか機械の人がテクニシャンとして一緒に入るんだけど。
吉 田:
技師さんなしで、代わりに助手が技師の役を務めて。どんな作業をするんですか。
和 田:
その頃は、大きいもんで適正圧にかけて、常に使えるようにしておいて、外来の診察後にいつでも使えるようにした。夜になって使おうと思っても、水圧が当時は一定しなかった。それで、夜8時過ぎ、いろんな手術や何かがもうみんな済んでからやっていましたね。
吉 田:
なるほど。
佐々木:
同じことが、大分後ですけど私の入った講座の生化学でもありました。村地孝助教授がアメリカから帰ってきて、NIHに申請した科研費がとおったので、高額の分析用の超遠心機を購入したのだが、1,500万円ぐらいのもの。やはりオペレーターがいなくて、その頃助手をしていた私に阪大の蛋白研へ行って習ってきてくれと言われて。それで、3ヶ月の国内留学を兼ねて、習ってきました。そして数年間オペレーター係りをやりましたね。
和 田:
僕の場合、電子顕微鏡を動かすのに、東京の三鷹の日本電子まで国内留学というか出張で習いに行きました、3か月ばかり。
吉 田:
それからは、しばらく名市大で活躍されたわけですか。
和 田:
まあ、そうですね。10年ぐらいおりましたか。それで、こんなことではどうしようもない。電子顕微鏡でもう少しきれいな写真を撮ろうということで、ボストン大学へ1 年半行きました。
吉 田:
佐々木先生は、インターンが終わって、国家試験が終わった後は、すぐに名市大だったですか。
佐々木:
そうですね。名市大の生化学に入りました。初めは外科とか内科も考えましたが、臨床をやるにも、もう少し基礎の勉強をしたいな、と思ってまずは、生化学に入りました。
そして、1年目に助手、5年目に先程の蛋白研の国内留学、9年目に文部省の在外研究員で米国などに出掛けるようになって生化学に定着してしまったわけです。
吉 田:
そうですか。どちらに行かれたんですか。
佐々木:
ちょうど学位論文に、免疫がこれから大事だから免疫をやりなさいと言われて、免疫の仕事をやっていたことから、3名の免疫の大家のところを選んで。
一つは免疫グロブリンのLightchainに相当するBence Jones蛋白の全一次構造を決めたPutnam の所、インディアナ州。
第2は、これも免疫グロブリンIgGの構造を決めてノーベル賞に輝いた、Edelman、ニューヨーク州、そして、もう一つは、アイソトープを取り入れて、斬新な免疫反応の解析を行っていたPressmanの所、ニューヨーク州。そして最後はハワイに寄って、当時、助教授の研究テーマであった蛋白分解酵素ブロメラインの原料を作っていたパイナップル工場など見学して帰りました。それからは、65歳まで生化学一本。今から思うと、あの頃、海外留学できたのは幸運だったですね。それは当時名市大の荻野学長が公立大学協会の会長だったことにもよるかな。その後、私の後にもうちの学校で二、三人が行っていると思います。
吉 田:
それは公立大学協会の予算で行かせていただいたんですか。
佐々木:
そうです。公立大学協会で予算が取れたんでしょうね。それで、各公立大学の間で順番を決めて行くようになったんかな。それはどのくらい続いたんだろう。今はやっていないですからね。数年は続いたと思いますね。
吉 田:
佐々木先生は、その後、医学部の教授として、また学部長として御苦労されたと思いますが、その頃のお話をお願いします。
佐々木:
まあ、楽しくやらせてもらいました。
吉 田:
どんな感じだったんですか。
佐々木:
まず学部長になったときは、基礎臨床合同の新研究棟が出来上り、何時移れるかと皆んなの期待が高まっていました。
そんな時、医学部の基本的にして最も大切なことは研究体制の在り方であろうと思われました。一流大学に勝るとも劣らぬ研究が出来、よい論文が次々に発表できるようにするには、どうすればよいか、それは大学院の充実と学位論文の在り方をみなおすことだと思いました。それまで、名市大の医学部で学位をとるには単独著者名で、邦文の名市大医学雑誌に投稿することになっていました。そして審査は主査の部屋で行われていました。
これでは良い研究は出来ない。良い論文は出来ない幾つかの誤りがある。第一に日本語の論文では世界の研究者は誰も読んでくれない。また、優れた研究は始めから一人で出来るものではない。そして審査が主査の部屋という密室では何が話されているかわからない。
吉 田:
それで、どうされたんですか。
佐々木:
そこで大学院の学位論文では、すべて欧文誌に発表する、そしてその研究に携った人は、教授や助教授も含めて、すべて共同研究者として掲載する。但し、学位を申請する人は必ず筆頭研究者とし、そしてこの論文は2度と他の人の学位論文に使用しない、としたわけです。さらに学位審査は公の場で日にちを公表して行う、誰が参加してもよいとしました。
吉 田:
その他にも。
佐々木:
そうですね、もう一つは海外の大学との学術交流協定ですね。当時は医学部だけがなかったんです。例えば、薬学部はアメリカの南カリフォルニア大学と、そして経済学部はどこだったかな。
吉 田:
ニューサウスウェールズですかね、オーストラリアの。
佐々木:
そう、そう、オーストラリアのね。それで、うちの医学部でもオーストラリアのニューサウスウェールズ大学は医学部もしっかりしているということで、そこと交渉することにしたんです。医学部長の他に教授会のなかから2名か3名、一緒に行く人を選んでもらって、それで3回ぐらい行ったかな。
吉 田:
そうですか。
佐々木:
3回ぐらい行って、それで協定を成立させましたね。
吉 田:
交流協定ですか。
佐々木:
そうです。これが医学部の第1号になりました。その後、中国とかほかのところができて、今は幾つぐらいあるかな。
吉 田:
今は、たくさんあります、全学で。
佐々木:
よかったですよ、ニューサウスウェールズ大はいいところだったから。今でも交流していますかね。
吉 田:
はい。
佐々木:
今は経済学部もたくさんありますね。
吉 田:
経済学部は、たくさん交流協定校があります。芸術工学部とか人文社会学部も結構あって、国際交流は盛んにやっています。
佐々木:
経済学部の誕生は私が助手の頃(昭和39年)でした。それまで名市大は医学部と薬学部だけの理系の大学でしたから、大阪市立大学や都立大学のように、大都市の公立大学は早くから総合大学ですから、名市大もそういう構想は始めからあったんでしょうね。その実現の第一歩が経済学部の誕生だったと思います。
吉 田:
名古屋市立大学が法人化したときに、名古屋市役所から大学に移管された資料の中に、「名古屋市立大学総合化計画」という書類があるんですよ。
佐々木:
それは極めて大事な話で、柴田学長が2期8年やられたうちの後期のことで、昭和59年(1984)だったと思うけど、その2期目に入ったときに名古屋市立大学の将来構想を話し合うということで、全学から、医、薬、経、それから教養部だね。これが集まって、足掛け3年くらいは討論を重ねたんですよ。
吉 田:
昭和59年ですか。
佐々木:
59年からだったと思う。
吉 田:
そうですか。
佐々木:
そこで将来の大学として、どのような学部を増設したらよいかとか、研究所や施設の整備、キャンパスは分散しておるけれども将来統一できないものかとか。そういうあらゆる問題を討議したんですね。それで、後になって市立3大学統合へとつながって、今の芸術工学部と、それからもう一つは……。
吉 田:
人文社会学部。
佐々木:
そうそう、人文社会学部が出来た訳です。
吉 田:
何か、総合大学化というのは2回計画されていて、1回は経済学部ができる前の昭和30年代の中後期ともう1回は……。
佐々木:
そう、これまでの話しは、そのあとの方の話しで、経済学部は、もう初めから討論に入っていましたから。
吉 田:
そうですか。じゃあ、先生が今お話ししてくれたのは昭和59年からのものですね。
佐々木:
そうそう、59年からのもので、その時出された多くの考えは、平成に入って「大学の将来構想に関する懇談会」などで構想が具体化していったと思います。
吉 田:
なるほど。
佐々木:
以前は市立3大学というのがあって、名市大とそれから名古屋市立女子短期大学……。
吉 田:
名古屋市立女子短期大学と名古屋市立保育短期大学。
佐々木:
そうです。3つあったんですね。当時は、名市大は衛生局の管轄だった。市立女子短期大学が総務局で、それから保育短大が民生局かな……。名市大は、とにかく総務局ではなくて、衛生局だったんだ。
それで、我々が学生の頃、3年生か4年生ぐらいの時だから昭和の31年頃かな。その頃は、まだ市立3大学は別々の局に分かれていたので、市長さんのところに嘆願に行ったことがあるんです。それも、名市大の学生だけじゃなくて、市立女子短大と保育短大の同窓会の会長、副会長と一緒に。3大学とも総務局の管轄に統合してくれと、そういう嘆願書を出したことがありましたね(名古屋市立大学50年の歩み、207頁)。
吉 田:
そうですか。今、名市大は7学部になりましたからね。
佐々木:
そのとおりだね。5学部1自然科学研究教育センターになって、そして、もう一つは看護学部。そういうことだったけれども、今は7つが全部学部になりましたね。
吉 田:
そうです。
佐々木:
最後は、自然科学研究教育センターは理学部(総合生命理学部)になったんですね。
吉 田:
その通りです。
吉 田:
和田先生は医学部創立50周年事業とか、そうした記念事業には、随分深く関わられてきたんですか。
和 田:
同窓会の3 代目の会長だったから。
佐々木:
最初はね、医学部の同窓会というのは卒業生だけじゃなくて、教員と当時の女子医科大学、女子医学専門学校などの卒業生で構成されていて、医学部長が同窓会長だった。それで、和田先生と同クラスの水谷孝文先生が卒業生主体の同窓会にするとして運動し、その第1回の会長に選ばれた。
和 田:
その当時の同窓会の名前は斯友会といって、今は瑞友会になっている。
佐々木:
そうです。斯友会という名前は、初代学長の戸谷銀三郎先生にお願いしてつけてもらった名前。
吉 田:
教員主体から卒業生中心に変えた。
佐々木:
そうそう。その会のときに、戸谷銀三郎先生も出席して、満足そうだったということです。
吉 田:
そうですか。それで和田先生は。
和 田:
私が同窓会長になったのはまだ現職で、城北病院の副院長をやっていたとき。それで、僕はそれからしばらく城北病院にいて、それから名古屋市の衛生局長を6年間やった。そのときに市立大学は総務局に属していて、だから、市大でまとまった意見は市大の事務局長が総務局長に言って、市大の事務局長は議会には出なかった。
佐々木:
先生のときは、もう既に名市大は総務局に入っていたわけですね。
和 田:
そうだな。僕はそれから、病院と16の保健所(現在は保健センター)を全部集めた衛生局の局長を6年間やりました。ですから、病院の監査ですとか予算とか、保健所の監査だとか、そういうことを6年間やって。それまでは、名古屋大学卒の人らばっかりでね。それで、若造がやれるわけないと大きな顔で面と向かって言われてね。何くそと思って、僕はやった覚えがある。
名大の卒業生の中で、大きな病院の、国立医療センターや掖済会病院とかが幾つもあるが、そういう病院でCT を買うので名古屋市から1,000万余出してくれといわれて。そんなの、普通の予算は、新年の前に決まってしまうのにそれを新年の1月か2月頃になってから1,000万、2,000万円出せといってくる。衛生局ももう予算決めた後だし、しようがないから市長のところへ直訴して……。普通の財政局だとか助役を通しておったら、なかなか。
吉 田:
そうでしょうね。
和 田:
市長と談判して、出してもらって。そういう大変な時期がありました。
吉 田:
そうですか。
和 田:
普通、2年間でお役御免なところを3 期もやった。県の医師会長とか市の医師会長は名大の人ばっかりで、あの若造がやれるかといわれてね。もう必死だったですよ。
吉 田:
やっぱり名古屋大の卒業生の方たちは、人数も多いし、力があったんですか。
和 田:
歴史もあって、ほとんどの病院の院長は……。
佐々木:
やっぱり、年代が必要ですね、年代がね。
吉 田:
卒業生の数が一定の人数になるまでは。
佐々木:
そうです。大体、大学を出て一番上の世代の卒業生が80歳か90歳になったときに、その大学の大体の実力が出る。私はそう思っているんですが。
吉 田:
なるほど。
飛 田:
大学として長期の戦略を考えたのは、昭和30年代ぐらいと、佐々木先生の言われた柴田学長の頃が、多分長期的な話を議論していて。だから、時々20年に一回ぐらいそういうことをやっていかないといけないですね。
佐々木:
僕はね、政経学科というのを経済学部につくってほしいと思う。
吉 田:
政治経済学科ですか。
佐々木:
そう。学部はすぐには難しいからね。政治経済の専門知識をもった卒業生が名古屋市でも国にでも出ていって、活躍してくれるようになればさらに大学の幅が広がるのではないかと。
吉 田:
そういう卒業生が欲しいですよね。
吉 田:
本日は、長時間にわたって貴重なお話をどうもありがとうございました。