特集(寄稿・座談会など)
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■令和2年(2020)11月17日 名古屋市立大学アイビールームにて
脇田 恵美子氏 看桜会副会長 名古屋市立大学看護学校18期生 昭和44年(1969)卒
■聞き手
吉田 一彦 人間文化研究科教授 副学長(大学史編纂・資料室)
吉 田:
今日はありがとうございます。今日は学生時代の思い出や、ご卒業後の活躍のお話をお聞かせいただけたらと思っております。よろしくお願いいたします。
脇 田:
よろしくお願いします。私は名古屋市立大学看護学校の18期生で昭和41年(1966)入学、昭和44年(1969)卒業です。
吉 田:
当時の授業の思い出をお聞かせいただけますか。
脇 田:
看護学校の教員は基礎や看護の歴史を担当してらっしゃって、あとは医学部の先生と、市大病院の看護部長(1)や看護師長(2)、それから一般教養は滝子キャンパスの教養部の先生に教えていただいていました。看護のことについては、ほとんど市大病院の看護師長の方たちに教えていただきました。
吉 田:
実習はどれくらいあったんでしょうか。
脇 田:
授業と実習は半々くらいでした。1年生の時の実習は基礎的なこと、たとえば患者さんとお話をしたり体を拭いたり注射したりといったことだったんですが、2年生になると自分の受け持ちの患者さんを持つようになりました。私たちの学年からカリキュラムが変わって「受け持ち看護制」になったんです。それまでは、実習は看護師(3)のお手伝いという感じだったんですが、私たちの学年は、看護師長さんが指導してくれました。
吉 田:
卒業後は、市大病院に勤務されたんですか。
脇 田:
そうです。外科に2年、内科に3年、整形外科に1年いて、そのあと7年間、看護学校の実習指導教員をやりました。昭和51年(1976)にはじめて臨床実習指導専任教員という制度ができまして、学校全体に3名ついたんです。1学年が40名ですから、学校全体で3名の実習指導教員というのはなかなか厳しくて、3、4箇所をまとめて見る感じでした。学生と一緒に行動して行う指導は病院の臨床指導者にお願いして、私たちは看護計画を立てさせて、計画に基づいた実習が進められているか、うまくいかないところはないかを確認しながら指導するように心がけていました。学生は安心して実習に取り組めていたようで、よかったという声をたくさん聞くことができました。
吉 田:
頼りになる先輩であり、親身の指導をしてくれる先生だったんですね。
脇 田:
その頃は、実習時間が長く、いろいろな問題もありました。ただ、患者さんから「安心してお願いできます」というような声も多くいただき、指導に力を入れたという思い出があります。その後、昇任して、昭和57年(1982)に看護師長になりました。看護学校が短期大学部になった時は、私は看護師長で、発展的に移行してよかったねという話をしていました。
吉 田:
その後は、定年まで病院に勤めてらっしゃったんですか?
脇 田:
13年間看護師長をして、その後副看護部長(4)になり、看護部長を2年間やって定年を迎えました。
吉 田:
ご苦労も多かったのではないでしょうか?
脇 田:
看護師長の時代は、直接患者さんと関わりながら、看護師を育てていくということができて楽しかったですね。毎日患者さんのところを回るんですが、看護師長である私に相談できるという方もいらっしゃって、それらを解決するようにしていました。
副看護部長になってからは、看護師長がしっかり病棟を管理きるようにすることが大事でしたね。師長が困っていることを一緒に考えていました。それから私は教育を担当していましたから、看護部の教育をどのように進めるか、看護協会の研修に誰を参加させるかということなんかも考えていました。
副看護部長の時に、ちょうど今の病院のところに新しい建物になって 移転するという話があって、夜な夜な動線を考えて図面とにらめっこしていました。その頃、阪神・淡路大震災があり、その教訓を生かして柱が増えたり、壁が厚くなったりという変更があって、また図面を引き直したりしました。患者さんが生活するにはどのような病室にしたらよいのかという視点がとても大事でしたので、日常的に患者さんの近くにいる看護師の意見を取り入れていただきました。病室にトイレをつけることや、電動のベッドを入れることなど、日常の看護の中で気になることを書き留めておいて、可能な限り図面に反映させていきましたね。
吉 田:
看護学校を卒業されて、長く市大病院に勤められた中で一番思い出にのこっていらっしゃるのはどんなことでしょうか?
脇 田:
やはり患者さんが元気で帰って行かれるのが本当に幸せでした。看護師冥利に尽きますね。本当に、患者さんに教えられてきたなと感じています。
それから、長く受診されていなかった妊婦さんが来られて、もうすぐ出産されるかもしれないということで産科に連絡をして、2、3時間後に出産されたということもありました。チームでやっていくということが大事だなと思いましたね。私が副看護部長の頃に、「チーム医療」ということが言われるようになってきて、医師、看護師、専門職の方がチームになって、どのようなケアをするかを考えるというのが今は普通になってきましたね。
吉 田:
では看護師になられたばかりの頃とは大きく変わったんですね。
脇 田:
そうですね、看護師になったばかりの頃は、なんて理不尽だと思うこともありました。義父に励まされて、話し合うことが大事と言われたことを思い出します。
吉 田:
ご家族の方にも支えられましたね。
脇 田:
準夜勤が夜中の1時、2時に終わると夫が迎えに来てくれて、一緒に夕飯を食べていましたね。ちょうど実習指導教員になった時に子供が生まれまして、市大病院の保育所に預けていたんですけれども、18時まででしたので、夜間に病棟で打合せがある時なんかはいつも連れて行っていました。ちょうど子供が小学校に上がる時に看護師長になったんですが、近くの小学校に通っていたので、授業参観などは昼休みをずらして顔を出すようにしていました。なんとか子育てをやっていけたのは、本当に夫の協力があったからこそだと思っています。
吉 田:
夜勤の時にお迎えに来てくれたのは、ほっとするし嬉しいですよね。
脇 田:
そうなんです。当時は看護師のタクシーもありませんでしたしね。私が看護部長の時は、夜勤の看護師が出勤・帰宅するためのタクシー会社との折衝もやりましたね。
吉 田:
そういったことも看護部長さんの仕事だったんですか。
脇 田:
それから、看護師の人数が非常に多く、結婚休暇や産休・育休を取る看護師もたくさんいますので、病棟が困らないようにスタッフを送り込むように、そういう人事のことは頭を悩ませました。過員がいる場合もありますが、予定通りにならないこともあり、やりくりするのが大変でしたね。今思えば、看護師長の時はそのようなことを考えることがなく、いい看護のためにはどうすればいいか一番考えることができて幸せでしたね。
吉 田:
岩田広子さん(現看桜会会長)は脇田さんの次の看護部長さんでいらっしゃるんですか?
脇 田:
そうです。私が定年になる時に公募で来て下さいました。岩田さんは市大看護学校の卒業で、市民病院で看護部長をされていましたが、市大病院のためならということで、こちらに変わってきてくださって、本当にありがたかったです
吉 田:
今の市大病院を見ていて、将来に向けて一言いただければと思います。
脇 田:
私が看護部長だった頃、自分に何ができるかということをすごく考えました。その当時は、外来と病棟の看護師が分かれていたんですが、患者さんはそこを行ったり来たりされるわけですから、どちらも見れる体制にした方がいいということで、一緒にしたんです。それからどちらも見れると同時に、なんでもやれる看護師にならなくてはいけないということで、専門看護師になるための研修にどんどん人を出しました。全国に通じる看護師を育てるという気持ちでやってきました。それがだいぶ実ってきて、後輩の皆さんがそれを発展させていってくださっていると実感しています。
これからも患者さんが第一ということが揺るぐことがないようにしていっていただきたいですね。
それから、東部と西部の医療センターの附属病院化もすごくいいことだなと思っています。名古屋市の病院として看護師のレベルも上げていってほしいなと思います。
吉 田:
統合をきっかけに看護師さんたちの能力もどんどん上げていってほしいですね。
脇 田:
それから働いていた時に思っていたのは、看護師さんたちには趣味や楽しみの時間を持ってほしいなということですね。学生時代はクラブ活動がありましたが、働くようになるとそういう機会がなくなってしまったので。
吉 田:
働くばっかりじゃなくて、楽しみの時間を持つことも大事ですね。今日は貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。
1,4 看護部長、副看護部長という名称は、昭和58年(1983)に総看護婦長、副看護婦長という名称から変更になりました。
2,3 看護師、看護師長という名称は、平成14年(2002)3月1日に看護婦、看護婦長という名称から変更になりました。