名古屋市立大学の歴史
名古屋市立大学の歴史
昭和25年(1950)、名古屋市立大学が開学した。名古屋市立大学は、前身の名古屋女子医科大学と名古屋薬科大学が統合して成立し、医学部(旧制、入学定員40名)と薬学部(新制、入学定員80名)の二学部からなる大学として歩みを開始した。初代学長は戸谷銀三郎、医学部長は後藤基幸(1887~1961)、薬学部長は内藤多喜夫であった。
「名古屋市立大学および前身校関係史料」には、現在表紙を失っているが、内容から『名古屋市立大学設置認可申請書』と判断される書類が存在する。その冒頭には次のようにある。
発保第一六二号
認可申請書
このたび本市経営の名古屋女子医科大学と名古屋薬科大学を合併綜合して名古屋市立大学と改称しそれそれ医学部及び薬学部に改組したいと思いますから御認可下さるよう別紙書類を添えて申請いたします。
昭和二十四年九月二十八日
設置者 名古屋市
右代表者 名古屋市長 塚本三
文部大臣 高瀬荘太郎殿
この申請は、文部省において大学設置審議会にて協議の上認可となり、昭和25年(1950)3月14日の文書(校管第83号)によって設置認可の通知がなされた。
成立時の名古屋市立大学の所在地は、
本部・医学部 名古屋市瑞穂区田辺通3-1
薬学部 愛知県愛知郡鳴海町字黒石2
附属病院・高等厚生女学校 名古屋市瑞穂区瑞穂通1-27
であった。
なお、前年の昭和24年(1949)10月28日に名古屋市議会において名古屋市立大学設置の件が議決されたことから、この10月28日が名古屋市立大学の開学記念日になっている。
名古屋市立大学誕生の頃の様相について、『名古屋市立大学20年の歩み』は
名古屋市立大学は、昭和24年10月の名古屋市議会における議決に基づき、翌25年4月、従来の名古屋女子医科大学と名古屋薬科大学を合併統合して、医学部(旧制)と薬学部(新制)の2学部をもって発足し、一般教育については教養科が設けられた。当初、基礎医学部門は市内瑞穂区田辺通に、臨床医学部門および附属病院は瑞穂区瑞穂通に、薬学部は市外鳴海町黒石に置かれていたが、昭和26年2月、田辺通校舎に隣接の瑞穂区萩山町に土地を買収し、ここに薬学部校舎を新築して、同年から昭和28年にかけて順次移転した。
医学部は、名古屋市立大学医学部として発足の際、新制医学部に切替の場合はその手続を要することとされていたので、昭和27年2月に認可を得て、昭和27年度から新制医学部を設置し、旧制医学部は募集を停止した。
旧制医学部は研究科を有しており、この研究科に対し昭和34年5月、学位論文審査権が附与された。旧制医学部研究科は昭和36年3月まで存続し、この間123件の旧制学位令による医学博士の学位を授与した。また旧制医学部もこの研究科とともに昭和36年3月まで存続した。
と記している。
名古屋市立大学校門
(『名古屋市立大学 20年の歩み』より)
ここに記される新制の医学部の設置については、また、『名古屋市立大学および前身校関係史料』の中に、昭和26年(1951)の『名古屋市立大学医学部設置認可申請書』が現存している。この医学部(新制)の設置申請は、同27年(1952)2月20日に認可された。学生の入学定員は40名であった。同年3月25日、旧制の医学部の第一期生の卒業式が挙行された。年度が変わって、同4月14日、新制の医学部の第一回入学式が挙行された。
次いで、同30年(1955)1月20日医学部進学課程の設置が認可され、同年4月より、医学部進学課程が設置された。これにより、医学部進学課程修了者は試験を受けることなく医学部に進学できることとなった。それまでは、入学試験に合格して入学しても、教養科の学修が修了した時点でもう一度試験を受け、それに合格してはじめて医学部に進むことができた。他大学の医学部への進学試験を受けてそちらに進学する学生もおり、また他大学から受験する学生もいた。これ以降はそうしたことはなくなり、最初の入学試験で名古屋市立大学医学部に入学した学生は教養部の学修が修了した後、そのまま医学部の専門課程に進むようになった。
名古屋市立大学の大きな課題は、名薬専の名古屋市移管以来の課題である薬学部の移転であった。昭和26年(1951)2月、田辺通キャンパスの山崎川を挟んで西側にあたる瑞穂区萩山町1-11の田畑を買収して名古屋市立大学の校地とし、薬学部の新校舎の建設が進められた。萩山町での新校舎の建設中、薬学部は医学部校舎などに仮移転をし、昭和28年(1953)6月14日、萩山町に3階建ての薬学部本館が落成すると、そちらに移転していった。こうして、薬学部は鳴海町黒石の地から瑞穂区萩山町に移り、戦時中からの悲願であった交通の便が良い名古屋市内への移転がここに完了した。
名古屋市立大学としては、山崎川の東側の地に医学部(田辺通三丁目)、西側の地に薬学部(萩山町一丁目)が相並ぶこととなった。薬学部の校地は敷地約3000坪(9900㎡)で、建物は研究室、実習室、図書館、講堂、講義室などがあったが、全体として当初の計画の半分にも達しないもので、設置基準に及ばない貧弱なものだったという。
昭和33年頃の校舎全景
萩山町の薬学部校舎
(『名古屋市立大学20年の歩み』より)
戸谷銀三郎は明治16年(1883)11月17日愛知県名古屋市東区飯田町の生まれで、愛知県立第一中学校を卒業後、京都の第三高等学校に進学、同校卒業後は京都帝国大学医科大学に進学し、明治41年(1908)1月に同学卒業。医化学を荒木寅三郎に、臨床医学を中西亀太郎に学び、同44年(1911)満鉄に入社、河西健次郎の指導の下、大連病院に内科医長として勤務し、兼任で奉天の南満医学堂にも勤務した。大正2年(1913)、満鉄よりドイツ留学を命じられて日本に一時帰国。同3年(1914)よりドイツのフライブルク大学に留学し、その後イギリスのケンブリッジ大学に2年間留学して帰国。再び奉天の南満医学堂に教授として勤務。大正8年(1919)大連の大連病院の勤務に戻り、同14年(1925)には大連病院院長に就任した。昭和元年(1926)、日本最初のアメリカ式の高層建築の大連病院が新築、落成した。昭和5年(1930)帰国し、翌6年(1931)7月の名古屋市民病院の開院とともに院長として勤務。以後、名古屋市の医療の充実に種々の貢献をした。名古屋市立女子高等医学専門学校が創設されるにおよび、昭和18年(1943)3月より同校校長、同附属病院長、次いで名古屋市立女子医学専門学校の校長、同附属病院長、昭和22年(1947)より名古屋市立女子医科大学の学長事務取扱兼予科長、昭和25年(1950)より名古屋市立大学の学長を務め、昭和32年(1957)3月まで学長の任にあった。市民病院の院長から通算すると27年間名古屋市に勤務し、名古屋市立女子高等医学専門学校からでは14年間にわたって校長、学長を務めた。昭和45年(1970)1月逝去。本学草創期の功労者である。
初代学長 戸谷銀三郎
戸谷先生之像(桜山キャンパス)
昭和25年(1950)に開学した名古屋市立大学はどのような大学だったろうか。医学部の前身は、前述のように、名古屋市立女子高等医学専門学校、名古屋市立女子医科大学で、これが名古屋市立大学医学部となった。薬学部の前身は、私立の名古屋薬学専門学校、名古屋市立の名古屋薬科大学で、これが名古屋市立大学薬学部となった。だから、開学時の名古屋市立大学は、女子大学の共学化、そして私立学校の公立大学化を行なう大学としてその歩みを開始した。この2点は、現在も、日本各地のいくつもの公立大学がかかえる課題であるともいえ、名古屋市立大学はそれを先駆的に実践した大学といえる。さらにもう1点指摘するなら、複数の市立の大学を統合したことで、これも今日の多くの大学がかかえる課題解決の先駆的取り組み事例となっている。
名古屋市立大学は、こうして今日まで続く70年の歩みを開始したが、課題もあった。一つは名古屋市立大学の総合大学化である。名古屋市立大学は二つの医療系学部を擁する大学として出発したが、当初は学部数が少なく、医・薬の二学部のみだった。名古屋市はまもなく「名古屋市立大学総合化計画」を策定して総合大学化の道を模索し、新学部創設の具体的な過程へと進んでいった。
もう一つの課題はキャンパス問題だった。名古屋市は戦災で甚大な被害を受け、市域は焦土と化した。そこから街を復興し、経済を再生させ、教育、文化を再興、発展させることは市政の大きな課題だった。その中で誕生した名古屋市立大学は、時代の制約もあって、必ずしも十分な敷地、建物に恵まれたわけではなく、薬学部は当初から校地を移動したいとの強い希望を持っていた。その後、名古屋市立大学の発展の中で、新たなキャンパス地を取得したり、あるいは名古屋大学のキャンパス地を「交換」によって得る(川澄キャンパス、山の畑キャンパス、これについては後述する)などして、名古屋市立大学の校地は少しずつ整えられていった。だが、今度はそれまで名古屋大学がかかえていたキャンパス地分散問題(いわゆる「タコ足大学」問題)を引き継ぐことになり、その解決は課題として長く残り、今日に至っている。
参考文献
名古屋市立大学20年の歩み編集委員会編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年
戸谷銀三郎「回想録」『現代医学』10-1、1962年
戸谷銀三郎・守屋博「我が最初の高層病院―満鉄大連病院のこと―」『病院』13-3、1955年
戸谷銀三郎・戸谷千代子著、戸谷徳潤・戸谷敏子編『志の婦ぐさ:父戸谷銀三郎母戸谷千代子の足跡』戸谷徳潤、1990年