名古屋市立大学の歴史
名古屋市立大学の歴史
名古屋市立大学の教養教育(「一般教育」と呼称)は、当初は薬学部教養科が担当した。初代の教養科長は中西栄作であった。その後、昭和30年(1955)4月に教養部が設置され、教養教育(一般教育)を担当するようになった。初代の教養部長も中西栄作が務めた。教養部の成立について、『名古屋市立大学20年の歩み』の「教養部の沿革」は、
設立当初の名古屋市立大学は医学部40名、薬学部80名の入学定員で発足し、教養部の前身教養科の授業は瑞穂区田辺通り3丁目の校舎で行なわれた。初代教養科長に八高の名物教授中西栄作先生を迎えたのは昭和25年4月である。医薬両学部で大学は発足したが、当初は医学進学課程はなく、29年4月までは入学制は一応薬学部に所属した。理科系の大学の教養科終了者は他大学の医学部の進学も可能であったので、当時は本学の教養科から東大や京大の医学部へ進学する者もあった。一方では本学の医学部志望者で学部の入学試験に失敗する者も出た。
医学部進学課程設置が認可され、学則を全面的に改め、教養科が教養部になったのは前期のごとく30年4月。中西栄作教授が部長として任命された。しかし田辺通りの校舎等諸設備は終戦直後に急造された木造建築で甚だ貧弱なものであり、図書館、学生食堂なども名ばかりのものであった。中西栄作教授退職後、昭和36年4月、教養部長に新しく戸谷正造教授が任命され、38年4月には医学部入学定員60名となり、同時に教養部長は中西正雄教授に変った。
教養科、教養部は、当初は田辺通キャンパスに置かれた。その後、教養部の講義は、一時、理系は田辺通、文系は川澄キャンパスに分かれた時期があったが、昭和40年(1965)4月、瑞穂区瑞穂町字山の畑1の山の畑キャンパス(元第八高等学校、名古屋大学教養部)に移転した。そして、新校舎が建築され、昭和43年(1968)3月に完成し、4月から新校舎にて講義が開始された。
なお、初期の教養科の講義風景や医学部へ進学する試験のことなどについては、本誌所収座談会「医学部同窓生座談会 草創期の医学部とその後の発展」「薬学部同窓生座談会 名古屋市立大学草創期の学生時代を振り返って」を参照されたい。
教養部の初期の様相について、名古屋市立大学教養部編『教養部のあゆみ』(1996年)は、「はじめに」(教養部長山本正康)で次のように記す。
教養部校舎
名古屋市立大学は昭和25年4月に設立された。この時点での一般教育の担当部局は薬学部教養科であり、医学部に入るためには教養科目の単位修得後に再度入学試験が必要であった。しかし、昭和30年4月に医学進学課程が設置され、試験は不必要になった。これを契機に薬学部教養科が廃止され、教養部として独立した組織になった。
設置と同時に教養部紀要が発刊され、そこに当時の戸谷銀三郎学長が(中略)「新制大学の特色は一般教育にある。一般教育は人文、社会、自然、外国語および体育の広きに亘り、その意図するところ専門教育の基礎を与うると共に、人生観、世界観の根底を培うべきところにある。」とある。(中略)医学部と薬学部のみの入学定員120名、全学学生わずか560名という単科大学並であるにも拘わらず、10学科24名の教員を擁し、相対的には総合大学に匹敵する教養部を設置したことは特筆すべきことであった。
また「沿革」の「はじめに」によると、設立時の教養科は「教員は19名、技術職員4名で、(予算定員上は、教員21名、技術職員5名)」であり、教養部設置時は「教員は10学科で24名、技術職員3名」であった。授業は教養科の時も教養部の時も田辺通校舎で行われたという。
『名古屋市立大学薬学部百年』は、昭和32年度(1957年度)の薬学部『学生便覧』に掲載される一般教育の学科課程および専門教育の学科課程の別表を引用している。教養部発足直後の貴重なものと考えるので、ここに「学科課程表(薬学部一般教育)」をあらためて掲載する。
学科課程表(薬学部一般教育)
系 列 |
年次期別 | 第1年次 | 第2年次 | 計 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
学科目 | 前期 | 後期 | 前期 | 後期 | ||
人 文 科 学 |
哲学 | 二 2 | 二 2 | |||
心理学 | 一 1 | 一 1 | 一 1 | 三 3 | ||
国文学 | 一 1 | 一 1 | 一 1 | 三 3 | ||
文学概論 | 一 1 | |||||
歴史学 | 二 2 | 二 2 | 四 4 | |||
社 会 科 学 |
法学 | 二 2 | 二 2 | 四 4 | ||
社会学 | 二 2 | 二 2 | ||||
経済学 | 二 2 | 二 2 | 四 4 | |||
統計学 | 二 2 | 二 2 | ||||
外 国 語 |
英語 | 三 6 | 三 6 | 三 6 | 九 18 | |
独乙語 | 三 6 | 三 6 | 二 4 | セ一 2 | 九 18 | |
ラテン語 | 一 1 | 一 1 | ||||
自 然 科 学 |
数学 | 二 4 | 二 4 | 二 4 | 六 12 | |
物理学 | 一 2 | 一 2 | 二 4 | 四 8 | ||
同実験 | 一 3 | 一 3 | ||||
化学 | 二 4 | 二 4 | 一 2 | 五 10 | ||
同実験 | 一 3 | 一 3 | ||||
生物学 | 二 4 | 一 2 | 一 2 | 四 8 | ||
同実習 | 一 3 | 一 3 | 二 6 | |||
地学 | 一 1 | 一 1 | ||||
体 育 |
体育講義 | 二 2 | 二 2 | |||
体育実技 | 2 | (計)一 1 | 1 | (計)一 2 | 二 6 | |
合計 | 二十二39 | 二十五39 | 二十三39 | 二 4 | 七十二121 |
「備考」本表中左段和数字は単位数、右段算用数字は毎週の授業時数を示す。
○セ・・・・・・選択科目を示す。
人文科学は哲史文に心理学を加え、社会科学は法学、社会学、経済学に統計学を加えており、外国語にラテン語が見える。
のち昭和39年(1964)4月、経済学部が設置されると、教養部は教員11名の増になったという。翌40年(1965)4月、教養部は山の畑キャンパスへと移転した。現在の山の畑キャンパスのグランドにあった旧名古屋大学教養部跡地への移転であった。山の畑キャンパスを名古屋大学から名古屋市が取得した経緯については、次章の「経済学部の成立」のところで述べるので、そちらを参照されたい。
なお、教員の配置は、授業の関係などにより、一時理科系は田辺地区、文化系は川澄地区に分かれていた時期があったという。その後、名古屋市立大学の発展に従い、教員数は少しずつ増加して、平成8年(1996)3月の教養部廃止時には41名プラス外国人教師2名となった。
校舎に関しては、山の畑キャンパスにおいて、昭和43年(1968)3月に教養部校舎の改築工事が完了し、同45年(1970)9月には体育館兼講堂が完成した。さらに同49年(1974)1月に学生会館が完成し、同50年(1975)8月には教養部校舎の増築工事が完了した。
教養部の授業風景
参考文献
名古屋市立大学20年の歩み編集委員会編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年
名古屋市立大学薬友会編『名古屋市立大学薬学部百年』1985年
名古屋市立大学教養部編『教養部のあゆみ』1996年