名古屋市立大学の歴史

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第Ⅰ章 前身校の歴史

1. 薬学部の前身校

(1)私立名古屋薬学校

 名古屋市立大学薬学部は、昭和25年(1950)の名古屋市立大学誕生とともに歩みを開始した。その前身校の一つである名古屋薬科大学は、明治17年(1884)に設立された私立名古屋薬学校を始まりとし、何度かの休校や移転、昇格や統合の後に現在の名古屋市立大学薬学部となった。ここでは、その歩みを私立名古屋薬学校設立の時代から順を追って見ていきたい。なお、本節は『名古屋市立大学薬学部百年』『名古屋市立大学20年の歩み』に依るところが大きく、適宜、名古屋市立大学に保管されている文書(「名古屋市立大学および前身校関係史料」など)を参照して補完を行なっていく。
 名古屋薬学校は、明治8年(1875)にすでに愛知県によって設立が計画されたが、当時の県議会では、仮病院であった県立病院の新築及び医学校の拡充問題が先決であるとされ、薬学校設立案は否決され、設立は見送りとなった。
 そうした中、明治14年(1881)、京町(1)の有力薬舗が名古屋製薬会社を設立し、同社の技師長であった蔵田信忠を校長とする私立名古屋薬学校を設立した。私立名古屋薬学校の設立の認可日は明治17年(1884)6月11日である。名古屋市下園町(現在の御園小学校内〈名古屋市中区錦一丁目〉)の名古屋製薬会社の工場と同じ敷地内に設置された。
 明治18年(1885)、校長の蔵田信忠が陸軍薬剤官に奉職するため、名古屋薬学校は一時休校となったが、まもなく武藤勝応の所有地である名古屋市西魚町(現在の名古屋市中区丸の内三丁目)に移転し、東大製薬学科卒・愛知医学校二等教諭兼薬局長の藤本理を校長として再開校された。私立名古屋薬学校は同地において3年半ほど開校し、生徒は30~40名ほどであった。第1回卒業生は明治21(1888)年の5名であった。

名古屋薬学校藤本理校長と当時の卒業証書
名古屋薬学校藤本理校長と当時の卒業証書

(2)私立愛知薬学校

 明治22年(1889)11月、私立名古屋薬学校の校長である藤本と講師の山脇健之助が、薬舗開業試験問題の漏洩事件のために拘引されるという不祥事件が起きた。これにより、名古屋薬学校は組織や講師を変更し、校名を私立名古屋薬学校から私立愛知薬学校へと改称した。そして、東大別科卒・愛知医学校動植物学教諭調剤所長心得の高田重孝を校長とし、校舎を西魚町から西新町(現在の名古屋市中区栄4丁目)へ移転した。
 同27年(1894)、日清戦争のために講師であった薬剤官の多くが出征または応召され、愛知薬学校は無期休校となってしまった。翌28年(1895)、磯部松太郎は、名古屋薬学校の校長であった藤本理と共に、藤本が経営していた愛知薬学舎と愛知薬学校を合併して、4名の講師で愛知薬学校を再発足させた。その際の設備費などの資金は磯部が負担した。
 しかし、明治31(1898)年9月、講師2名が東京就職のために辞職することになり、講師難のために再び休校となってしまった。磯部は、この年に京都から愛知医学校の教諭として着任した小野瓢郎に協力を依頼し、小野を校長とすることで同年10月に愛知薬学校は再開した。これ以降、年々校規の整備が行なわれ、入学者も増加していった。
 明治32年(1899)、愛知薬学校は、入学者の増加によってそれまでの校舎が手狭になり、名古屋市駿河町1丁目(現在の名古屋市東区武平通付近)へと移転した。同36年(1903)、新入生のさらなる増加に伴い、駿河町の校舎から、名古屋市中区栄3丁目(現在の名古屋栄三越ビル東南付近)へと移転し、実験室等を増築した。同40年(1907)、生徒数が200名を突破し、名古屋市南久屋町4丁目(現在の名古屋市中区栄3・4丁目)に建物を新築して移転した。この明治40年から大正5年(1916)に至る約10年間は、生徒数の増加や校舎の新築による移転などが行なわれ、愛知薬学校の最隆盛期と言える。
 大正2年(1913)9月、文部省から薬剤師試験改正規則が発布された。これは、乙種薬学校を廃止して甲種薬学校へ昇格させることを目的とするものであった。乙種薬学校であった愛知薬学校は、廃校か昇格かの判断を迫られることになった。そして、検討の結果、経営上の理由から、大正10年(1921)10月の施行までに甲種薬学校に昇格するのは不可能との結論に達し、大正7年(1918)10月から新入生の募集を停止し、同10年4月、在校生全員を卒業させた上で、同7月15日に廃校手続きを完了した。生徒数がしだいに増加していった愛知薬学校は、こうして廃校になってしまった。

愛知薬学校時代
愛知薬学校時代

(3)愛知高等薬学校

 大正15年(1926)、母校を失った愛知薬学校の同窓生たちから薬学専門学校再設立の話題が提起され、同年、甲種薬学校設立を目的とする、11名からなる建設実行委員会が発足した。宮田専治(1887~1968)などの中心メンバーは会合を重ねたという。新設校の用地をどこに設定するかについては諸々の問題が発生したが、最終的には、愛知県愛知郡鳴海町黒石(現在の名古屋市緑区鳴海町)に建設することに決定された。そして、昭和6年(1931)10月1日、愛知県知事から私立愛知高等薬学校設立の認可がなされた。待望の学校再開であった。しかし、文部省と愛知県の意見は一致せず、文部省からはその約3年後、昭和9年(1934)4月1日付で財団法人愛薬学園の認可が下りた。
 昭和6年4月、愛知高等薬学校は無認可の状態で開校したが、そこでは当時としては珍しい、男女共学制が採用された(修業年限3年、最初の入学者は男子150名、女子8名)。しかし、同10月に愛知県から各種学校として認可されると男女共学制は廃止となり、入学時に8名いた女子学生は姿を消した。
 愛知高等薬学校の校地となった鳴海町黒石の地は、敷地が約1万坪あり、面積的には恵まれていた。だが、名鉄鳴海駅から東に3.5キロメートルほど離れた丘陵上にあって、交通ははなはだ不便であった。生徒たちはその長い道程を徒歩で通学した。開校当時から、愛知高等薬学校の生徒の間では、専門学校への昇格を希望する声が上がり、父兄も参加する昇格運動が起こった。昇格運動の中心に立ったのは、河合右司尾、浅尾(伊東)保二の両教授であった。

(4)名古屋薬学専門学校

 昭和9年4月、文部大臣から財団法人愛薬学園が認可された。愛知高等薬学校は、文部省の財団法人認可の際に私立愛知薬学校へと改称した。ただ、認可はされたものの、財団法人という扱いで、専門学校としての認可はまだ下りなかった。翌昭和10年(1935)12月28日、文部省から専門学校として認可するという正式な書類が交付され、私立愛知薬学校(愛知高等薬学校)は専門学校に昇格することができた。こうして翌11年4月(1936)に名古屋薬学専門学校が誕生し、愛知高等薬学校は同年3月に廃校となった。愛知高等薬学校の卒業生は計266名を数える。
 昭和11年4月、名古屋薬学専門学校が開設された。修業年限は3年であった。愛知高等薬学校の在校生には名古屋薬学専門学校への編入学が認められた。翌12年(1937)には専攻科が設置された。『名古屋市立大学薬学部百年』は、愛知高等薬学校の専門学校昇格について次のように述べている。

 昭和6年度から11年度に至る5年間は本校歴史の中でもっとも重大な意義を持つ年月であった。(中略)もし、この5年間が空白であったら、もし、この5年間、本校に関わる人々が怠惰であったらこの時点で本校の歴史は閉ざされ、今日の名古屋市立大学薬学部の存在はなかったかもしれない。

 名古屋薬学専門学校の初代の校長は高畠清が務め、次いで末次又二が務めた。教授陣は薬学士6名、理学士1名、文学士2名で、他は兼任講師であったという。

薬学校から薬学専門学校に昇格したときの情景
薬学校から薬学専門学校に昇格したときの情景
(『名古屋市立大学 20年の歩み』より)

(5)名古屋薬学専門学校の名古屋市移管

 昭和13年(1938)4月1日、国家総動員法が公布され、戦時体制が強化される中で、ガソリンが配給制となり、研究・実習用のエアーガスの使用の節約が迫られた。名古屋薬学専門学校(名薬専)は、鳴海町黒石という交通不便な立地であったため、石炭ガスの出る名古屋市内への移転を検討し始めた。昭和18年(1943)、内藤多喜夫(1900~1976)が校長になった。戦火はさらに厳しくなり、エアーガスの使用が絶望的になる中で、名薬専を存続させるためには学校を名古屋市に移管し、公立の学校とすることで窮状を解決するという案が浮上した。翌19年秋、名薬専の名古屋市移管の相談がまとまった。名古屋市長佐藤正俊を説得してこの話をまとめたのは、名古屋市健民局長であった山口静夫であったという(2)
 戦争が終わった昭和21年(1946)2月、財団法人名古屋薬学専門学校を名古屋市に移管する件が実施となった。同理事長の神谷啓三は、同年2月5日、名古屋市長佐藤正俊宛に「寄附採納願」を提出した。その「寄附採納願」及びそれに付された添状が「名古屋市立大学および前身校関係史料」の中に残っている。以下にそれを引用する(同資料は大学史資料館にレプリカを展示)。

(寄付採納願)
昭和二十一年二月四日
   名古屋薬学専門学校設立者
     財団法人名古屋薬学専門学校
       理事長 神谷啓三(角朱印)
名古屋市長 佐藤正俊殿

           寄付採納願
今般本法人維持経営ノ名古屋薬学専門学校ヲ貴市ニ移管致シ度候間
御採納被下度別紙財産目録添付此段及御願候也
以上
(添状)
謹啓 厳寒ノ砌リ愈々御清適ノ段奉慶賀候
陳者先般以文書御申趣ノ本財団経営ニ係ル名古屋専門学校ヲ今
般貴市ニ移管致シ度候ニ付テハ御採納ノ上左記条項ニ対シ何卒格別
ノ御高配賜リ度奉願上候
           記
一、教職員並ニ雇員全部ヲ引続キ御採用方ノ件
(但シ特別ノ事由有ル者ハ其ノ限リニ非ス)
一、御採用ノ教職員並ニ雇員優遇方ノ件
一、実験実習及び研究施設完備方ノ件
一、交通機関設備方ノ件
一、教員住宅設備方ノ件
以上

寄付採納願
寄付採納願

 添状で、神谷は、名古屋市に対して次の5点について格別の御高配をたまわりたいと述べている。それは、①教職員・雇員の全員を引き続き採用すること、②教職員・雇員を優遇すること、③実験・実習・研究施設を完備すること、④交通機関問題を改善すること、⑤教員住宅を整えることであった。名古屋薬学専門学校が名古屋市に移管されることは、同年3月20日の名古屋市議会で満場一致で可決された。
 昭和21年4月、公立名古屋薬学専門学校が発足した。『名古屋市立大学薬学部百年』は、名薬専が名古屋市に移管された昭和21年4月1日を現在の名古屋市立大学薬学部誕生の出発点としている。名薬専は名古屋市移管直後に交通の便が良い市街地へと移転することが期待されたが、それはただちには達成されず、新校舎の建設まではなお5年の歳月を必要とした。昭和22年4月、名薬専は男女共学となり、はじめて女子生徒5名が入学した。

寄付採納願
名古屋薬学専門学校校舎全景

(6)名古屋薬科大学

 昭和22年(1947)3月31日、教育基本法、学校教育法が公布されて、全国で学校制度の改革が起こり、名薬専も新制薬科大学開学への道を歩み始めることとなる。名薬専は、名古屋大学など他の国立大学と合併するか、廃校となるかの岐路に立たされたが、同年「新制大学昇格期成委員会」が結成され、大学昇格の道を目指して運動を進めていった。昭和23年(1948)に薬事法が改正され、24年度より薬剤師国家試験の実施が定められたが、その間にも名薬専の施設や教授陣は順次整備され、新制大学としての条件を整えていった。
 昭和24年(1949)2月21日、「学校354号」により、名古屋薬学専門学校は新制大学の名古屋市立の名古屋薬科大学として認可され、大学に昇格した。名古屋薬科大学の成立である。入学定員は80名で、学長には内藤多喜夫が就任した。なお、大学の位置は私立愛知高等薬学校開校以来の愛知郡鳴海町黒石のままであった。
 さて、それも束の間、今度は名古屋薬科大学と名古屋女子医科大学とを統合して名古屋市立大学を設置する案が検討され、同年10月28日、名古屋市議会で議決された。名古屋市立大学の設置の申請は、文部省によって昭和25年(1950)3月14日に認可され、同年4月1日、名古屋市立大学が発足した。初代学長には戸谷銀三郎(1883~1970)が就任した。こうして名古屋薬科大学は名古屋市立大学の薬学部となり、以後の歴史を歩んでいった。
 昭和26年(1951)2月、名古屋市瑞穂区萩山町の田畑が買収されて名古屋市立大学の校地とされ、薬学部の名古屋市内への移転作業が始まった。同年3月20日、名古屋薬学専門学校は最後となる第15回卒業式を挙行して卒業生を送り出し、廃校となった。卒業生の合計は2105名を数える。なお、名薬専が所在した鳴海町黒石の地は、現在閑静な住宅街となっており、滝の水公園(名古屋市緑区篠の風)に「名古屋薬学専門学校跡 1931-1951」の碑と解説パネルが設置されている。また、名古屋薬学専門学校校歌が刻まれた碑が設置されている。以下に校歌の一番、二番の歌詞を引用する。

名古屋薬学専門学校跡の石碑
名古屋薬学専門学校跡の石碑

 
名古屋薬学専門学校校歌
作詞:石田元季 作曲:石野巌

  一、青史千古の輝きに
    英雄馳驅の跡偲ぶ
    山河間近く屹として
    鳴陵聳え立つところ
    健兒の意気は天を衝く
  二、星の宮居の名に負へる
    秤に愛と知を載せて
    不磨の偉績に先学の
    尊き努力おもふ時
    健兒の理想いや高し

参考文献
深谷善雄『愛知県薬業史』名古屋薬業倶楽部、1965年
名古屋市立大学薬友会編『名古屋市立大学薬学部百年』1985年
八代有「名古屋市立大学薬学部115年」『薬史学雑誌』39-1、2004年