名古屋市立大学の歴史
名古屋市立大学の歴史
昭和24年(1949)4月、甲種看護婦を養成する学校として、名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校が新設された。入学定員20名、修業年限3年、初代学校長は松田豪一氏、初年の入学生は15名であり、入学資格は、①新制高等学校卒業者、②旧制高等女学校卒業者、③その他①②と同等以上の資格(学力)を有する者、④旧看護婦規則による都道府県知事の看護婦免許をうけた者、のいずれかに該当する者であった(「第1期生入学募集要項」「募集ポスター」『昭和二十年起 女子医学専門学校関係書綴 健民局庶務課』所収)。
昭和24年9月、同校の甲種看護婦学校の認可申請書が提出され、翌25年(1950)3月、「保健婦助産婦看護婦法」第21条第1号の規定に基づき、甲種看護婦学校の指定を受けた。ここに、「保健婦助産婦看護婦法」に基づく新制度による看護教育がスタートした。なお、昭和25年に文部大臣より甲種看護婦学校の指定を受けたのは全国で17校であり、本学もそのうちの1校であった。
この時代のこととして特筆すべきは、教育体制の整備である。旧制度における看護教育では、医師による看護教育が行われていたが、新制度のもとでは、経験ある看護婦が教員として置かれることになり、同高等厚生女学校でも、3名の専任教員(うち1名は事務長兼任)が配置された。ただし、開校時点において高等厚生女学校独自の校舎はなかったため、授業は瑞穂区田辺通りにあった名古屋女子医科大学の教室(現、田辺通キャンパス)と附属医院の病室を間借りして実施され、学生の寄宿舎も病棟を代用するかたちであった。
もう一点、第Ⅰ章「4.看護学部の前身校」で述べたように、看護婦養成所は病院の附属機関という位置づけであったが、高等厚生女学校は大学附属の、つまり大学直属の機関になった点も指摘しておきたい。
昭和25年(1950)4月、名古屋女子医科大学は名古屋薬科大学と統合し、名古屋市立大学が開学した。これにともない、名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校は、名古屋市立大学附属高等厚生女学校となった。
この時期になると、名古屋女子医科大学附属の時代にはなかった高等厚生女学校独自の校舎1棟と寄宿舎4棟が完成する。校舎と寄宿舎は、病院の敷地内の東南隅の一画(瑞穂図書館の旧所在地)に建てられた。まず昭和25年(1950)7月に寄宿舎の1棟(第1寄宿舎)が完成し、翌年(1951)8月に新校舎と残りの寄宿舎3棟が完成、移転が行われた。校舎・寄宿舎はすべて木造2階建てで、寄宿舎のうちの第1寄宿舎は廊下が病院とつながる構造になっていた(「名古屋市立大学病院平面図」)。
さらに昭和28年(1953)5月には、校歌が作られた。谷井みつ子氏(元専任教員、元名市大病院総看護婦長)の回想録「戦後の混乱期の中で生まれた看護学校の思い出」(『名古屋市立大学看護学校30周年記念誌』)によると、開校当初は賛美歌を歌っていたそうだが、戦後の学校で宗教に偏ることが禁止されていたため、校長から叱責され、急遽校歌が作られたそうである。校歌の制作は、はじめは学生に募集をかけたが、良いものがなく、最終的に作詞を中西正雄氏(国語担当教員)、作曲を岩佐伝先生(音楽担当教員)に依頼し完成したという。この時、完成した校歌は以下のものである。また学生雑誌「若あゆ」の創刊もこの頃に始まった。
校歌
瑞穂が丘の学び舎に 輝きみてる朝日がけ 恵みの光
わが鏡 仰ぐ瞳に 望もゆ 「あゝ 清らけき看護の道よ」
愛の灯かかげつゝ 真心つつむ 白き衣 なやめる人の幸のため
いざやきわめん 我が使命 「あゝ 清らけき看護の道よ」
その名ゆかしき此の丘の うましきつどいに栄あれ 久遠の理想かたらえば
若き命は いやたぎつ 「あゝ 清らけき看護の道よ」
参考文献
名古屋市立大学事務局総務課編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年
名古屋市立大学看護学校編『名古屋市立大学看護学校30周年記念誌』1980年
「看護学部・看護学研究科のあゆみ(沿革)」大学院看護学研究科・看護学部オリジナルサイト(https://www.nagoya-cu.ac.jp/nurse/guide/history/index.html)