名古屋市立大学の歴史
名古屋市立大学の歴史
昭和38年(1963)1月、経済学部設置の準備委員会が組織された。委員会のメンバーは、静田均(京都大学教授)、一谷藤一郎(大阪大学教授)、酒井正兵衛(名古屋大学教授)、木村廉(名古屋市立大学学長)、松坂佐一(顧問、名古屋大学学長)であった。同年3月5日、名古屋市会本会議において経済学部の設置が決定され、4月1日には、本部に経済学部設置準備室が置かれた。その後、経済学部設置認可申請の書類作成作業などが急ぎ進められ、その年の9月に「名古屋市立大学経済学部設置認可申請書」が文部省へ提出された。経済学部経済学科の設置は翌39年(1964)1月25日付で認可され、同年4月、経済学部経済学科が開設された。学生の入学定員は150名、修業年限4年、教員7名(教授1名・助教授5名・講師1名)で、初代学部長は準備委員会のメンバーの一谷藤一郎が務めた。
地大第14号
名古屋市
昭和38年9月30日付けで申請の名古屋市立大学経
済学部の設置を、下記のように認可します。
昭和39年1月25日
文部大臣 灘尾弘吉「文部大臣印」
記
1、名 称 名古屋市立大学
2、位 置 愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄1
3、学部学科 入学定員 収容定員
経済学部 経済学科 150人 600人
4、修業年限 4年
5、開設年次 第1年次
6、開設時期 昭和39年4月1日
地大第14号
名古屋市
昭和38年9月30日付けで申請の名古屋市立大学経 済学部の設置を、下記のように認可します。
昭和39年1月25日
文部大臣 灘尾弘吉「文部大臣印」
記
1、名 称
名古屋市立大学
2、位 置
愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄1
3、学部学科
入学定員 収容定員
経済学部 経済学科
150人 600人
4、修業年限 4年
5、開設年次 第1年次
6、開設時期 昭和39年4月1日
初年度の入学者は165名(入学志願者数968名)で、入学定員を上回ることになった。こうして経済学部が開設され、それまで医・薬二学部だけだった名古屋市立大学は総合大学化へ向けて第一歩を踏み出した。
経済学部は、昭和39年4月の開設時から昭和42年3月まで、川澄キャンパスにあった旧名古屋大学経済学部(旧名古屋高等商業学校)の老朽校舎を使用して授業を行なっていた。ここでは、経済学部が現在の山の畑キャンパスに移るまでの経緯を述べていく。
経済学部校舎(川澄キャンパス)
経済学部は、その計画段階から、山の畑地区の第八高等学校の跡地(現、山の畑キャンパス)に置かれる予定であった。ただ、同地には第八高等学校を前身とする名古屋大学教養部が置かれていたため、同教養部が東山地区へ移転した後、名古屋市立大学がその跡地を取得する予定であった。
山の畑キャンパスの取得については、後述する川澄キャンパスの取得と同じ、名古屋大学との土地建物の「交換」という方法が採られた。これは、名古屋市が名古屋大学の旧キャンパス地を譲り受ける代わりに、名古屋市の負担で名古屋大学の建物等を東山地区に新設するというもので(10)、この場合だと、名古屋市が名古屋大学教養部(旧第八高等学校)の跡地とその建物等を譲り受ける代わりに、東山地区に名古屋大学教養部の校舎および文学部・教育学部の校舎の一部を新設するというものであった(11)。このような交換の結果、昭和39年(1964)3月に名古屋大学教養部は東山地区に新築された校舎への移転を終えたが、名古屋市がその跡地を正式に取得したのは昭和40年(1965)4月であった。そのため、山の畑キャンパスに新校舎が完成するまでの間、経済学部は川澄キャンパスの老朽校舎を使用することになったのである。
昭和40年4月、名古屋大学から山の畑キャンパスを取得し、そこに経済学部の校舎、教養部の校舎、図書館分館の建設を開始した。そして昭和42年(1967)4月、新校舎が完成し、経済学部は山の畑キャンパスへ移転した。経済学部の新校舎には、各ゼミに1つのゼミ室が用意されており、この1ゼミ・1ゼミ室体制は全国的にめずらしいものであった。充実した教育環境は経済学部の魅力の1つだったと言える。
川澄の老朽校舎で過ごした第1期生は、最後の1年間は新校舎で過ごし、昭和43年(1968)3月25日、第1期生151名が卒業した。
山の畑キャンパス正門
(『名古屋市立大学 20年の歩み』より)
経済学部校舎(山の畑キャンパス)
昭和43年度、経済学部は入学定員数を150名から200名に増員した。これは、「本学部への入学希望者は、年々増加の一途を辿り、昭和42年度のそれは、昭和39年度の2倍強に達し、また来年3月の第1回卒業生に対しては、すでに5倍をこす求人があり、当地域の産業界を始め各方面からさらに多くの人材の養成が求められている」(昭和42年9月4日付「薬学部薬学科および経済学部経済学科の学生定員増員について」〔名古屋市立大学事務局総務課文書〕の別紙資料)とあるように、入学希望者の増加に対応するためであった。
こうした学生定員の増加と並行して、教員の数も教授11名・助教授12名・助手11名の計34名に増え、さらに12講座制(経済原論、統計学、経済学史、経済史、経済政策、社会政策、金融論、産業経済論、財政学、国際経済学、経営学論理、会計学)の教育・研究体制が発足した。その後も、講座制の拡充は続き、昭和44年(1969)度に経営政策講座が、昭和45年(1970)度に計量経済学講座が、昭和47年(1972)度にオペレーションズ・リサーチ講座が増設され、当初目標の15講座制となった。
さらに上記15講座のうち、昭和53年(1978)度に統計学が、昭和54年(1979)度にオペレーションズ・リサーチが、昭和55年(1980)度に計量経済学と経営政策が、昭和56年(1981)度に社会政策論、国際経済論、産業経済論、会計学原理が実験講座化され、実習・実証研究の環境が充実・整備されていった。
講座制の整備・拡充がなされる中、教員相互の共同研究の促進と人事の停滞を避ける目的で、昭和59年(1984)から昭和60年(1985)にかけて、従来の15講座制から大講座制への移行が行われた。これにより、上記15講座は、経済理論、経済政策Ⅰ、経済政策Ⅱ、経営・会計学の4つの大講座に改組され、それにともなって教員数も増え、教授21名・助教授10名・助手13名の計44名となった。
経済学部ゼミナールの様子
(『名古屋市立大学 20年の歩み』より)
昭和42年(1967)度、大学院設置に向けた動きが具体化し、昭和43年3月30日付をもって、大学院経済学研究科修士課程の設置が認可され、昭和43年(1968)4月、大学院経済学研究科修士課程(経済政策専攻)が開設された。入学定員10名でのスタートであった。また同年度には、博士課程の設置の準備もはじまり、昭和45年(1970)4月、入学定員5名をもって、大学院経済学研究科博士課程(経済政策専攻)が開設され、昭和50年度より、両課程は大学院経済学研究科博士課程(経済政策専攻)の前期課程・後期課程として再編成されるに至った。
その後、時代が移り変わる中で、経済活動の情報化・グローバル化が急速に進み、高度で体系的な専門知識を有する社会人の養成が大学院に求められるようになった。こうした社会的要請に応えるために設置されたのが社会人大学院である。
社会人大学院の設置については、『名古屋市立大学大学院経済学研究科日本経済・経営専攻設置協議書(昭和63年11月)』(以下、『社会人大学院設置協議書』)にまとめられている。そこには、社会人大学院を必要とする理由について、次のように述べられている。
以上のような背景のもと、社会、経済及び経営の国際化に適切に対処できる人材の育成を目的に増設されたのが社会人大学院だった。社会人大学院の設置においては、既存の博士前期課程(経済政策専攻)の一部を分割して(これにより、博士前期課程の入学定員は10名から8名に減少)、修士課程(日本経済・経営専攻)を置く方法がとられた。また、新設の修士課程(日本経済・経営専攻)には、大学院設置基準第14条の特例を適用して、社会人を受け入れられるようにし、昼夜開講による大学院教育を行うようにした。こうして、平成元年(1989)4月、昼夜開講制で、社会人を主な対象とする大学院経済学研究科修士課程(日本経済・経営専攻)が新設された。入学定員15名、修業年限2年であった。
名古屋市立大学の社会人大学院の設置と同じ年に、筑波大学でも夜間開講の社会人大学院が設置されたが、夜間も開講する社会人大学院はそれまでどこにもなかった。夜間開講社会人大学院は、名古屋市立大学と筑波大学が全国で初めてであり、全国に先駆けた試みであった。そうした話題性もあって、両学における夜間開講社会人大学院の開設は朝日新聞など全国紙に掲載され、全国的に知れ渡ったことで、初年度の入学志願者数は119人と、定員15名を大きく上回る数となった。
参考文献
名古屋市立大学20年の歩み編集委員会編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年
創立30周年記念事業実行委員会編『名古屋市立大学経済学部「三十年のあゆみ」』1994年
社会人大学院創設10周年記念事業実行委員会編『名古屋市立大学大学院経済学研究科「社会人大学院10年のあゆみ」』2000年
名古屋市立大学開学50周年記念誌編纂委員会編『名古屋市立大学50年の歩み』2001年