名古屋市立大学の歴史

名古屋市立大学の歴史

HOME > 名古屋市立大学の歴史 > 本文 > 第Ⅰ章 前身校の歴史

第Ⅰ章 前身校の歴史

3. 人文社会学部、芸術工芸学部、総合生命学部の前身校

(1)名古屋市立保育短期大学

名古屋市保母養成所

 名古屋市立保育短期大学、およびその前身の名古屋市保母養成所、名古屋市立保育専門学園について、その歴史を略述する。この節の叙述にあたっては、『名古屋市立保育短期大学五十年史』に多く依拠するとともに、「名古屋市立大学および前身校関係史料」を参照した。
 名古屋市保母養成所が成立したのは、昭和21年(1946)4月のことだった。場所は名古屋市昭和区白金町三丁目十一番地、代表者は所長の服部秀一、主任者は養成主任(名古屋市保母長兼務)の珠川善子(1903~1970)で、所長はまもなく青山大作を経て林二郎(名古屋市厚生局社会課長、のち名古屋市中央社会館長)が務めた。
 名古屋市保母養成所は戦後の焼け跡の中から立ち上がった。『あかねさす――幼児教育の為に一生を捧げられた珠川善子先生追悼文集』に収められた、青山大作「「聖」とも申し上げるべき珠川善子先生」には、次のようにある。

あかねさす
あかねさす

 昭和20年に入り、名古屋市は頻々と空襲を受けるようになったので空襲から園児を守るため全市立保育園は3月末を以て閉園され、保母は全員市役所に引き揚げられ、一般事務の補助をすることになった(中略)。終戦後、間もない9月の中頃と記憶しているが或日、珠川先生が折り入っての相談があるとて相当深刻な面持ちで保母養成が緊急な当面の問題である所以を縷々説明せられ、この問題に対処して一日も早くその養成機関を設置せねば保育事業は危機に直面することになるとのこと。(中略)一日も早くこの養成機関を設置すべきで、取りあえず保母養成講習会を開くべきである、とのことで(中略)珠川先生の熱意と努力とは、ついに上司並びに市長の認めるところとなり、これが火種になって現在の名古屋市立保育短期大学にまで成長したのである。

 ここにあるように、また『名古屋市立保育短期大学五十年史』が述べるように、名古屋市保母養成所の前身になったのは名古屋市保母養成講習会で、昭和21年2月、中央勤労館において修業期間3か月間で実施され、同年4月に修了生49名を輩出した。そして、それと一部重なる日程で、同年4月に名古屋市保母養成所が誕生し、最初の年度は6か月間の修業期間、翌22年からは一年間の修業期間で保母の養成が開始された。草創期の名古屋市保母養成所について『名古屋市立保育短期大学五十年史』は、関係する重要史料として「名古屋市保母養成所規則(昭和二十一年五月二日名古屋市規則第三十八号)」と、「保育所保母養成幼稚園教諭養成施設調査(昭和二十二年九月一日現在)」の二点を指摘、引用する。


名古屋市立保育専門学園

 昭和22年(1947)12月、児童福祉法が公布され、翌23年(1948)1月に施行された。こうした情勢の下で、昭和23年4月、名古屋市保母養成所は名古屋市立保育専門学園と改称した。あわせて厚生省に保母養成機関として認可申請を行い、入学定員を70名から100名に増員した。同年7月、名古屋市立保育専門学園は保母養成機関として認可された。この時期に厚生省から認可された保母養成施設は千葉県、大阪府と名古屋市の3か所だったという(『名古屋市立保育短期大学五十年史』)。中央社会館館長で保母養成所長を兼務していた林二郎が転出し、新たに珠川善子が名古屋市立保育専門学園学園長に就任した。
 『名古屋市立保育短期大学五十年史』は、「名古屋市立保育専門学園入学案内」(昭和24年)と、「名古屋市立保育専門学園規則」(昭和二十三年十月七日名古屋市規則第八十七号)を参考資料として掲載している。当時の貴重な資料である。また、今回、「名古屋市立大学および前身学校関係史料」を調査する中で、『保育専門学園に関する綴/昭和26年度』に出会うことができた。そこには、未紹介の貴重な資料が収められており、「名古屋市立保母養成所職員現員現給表」や「保母養成所生徒名簿表」、あるいは「昭和二十六年度職員養成所費(保母養成所費)の国庫補助申請書」(昭和二十六年五月三十日/名古屋市長塚本三から厚生大臣黒川武雄あて)、および「補助通知」(厚生大臣橋本龍伍から名古屋市長あて)などの興味深い資料が存在する。また、『保育専門学園綴/昭和二十一~二十七年度』の中に名古屋市立保育専門学園の生徒募集ポスターが綴じられており、往時の生徒募集の様相をしのぶことができる(レプリカを大学史資料館に展示)。
 昭和27年(1952)、専門学園最後の年に学園歌「あかねさす」が作成され、短期大学に引き継がれた。これは、学生たちが、作詞を福島佐松先生、作曲を水野久一郎先生に依頼して出来上がったものである。以下に歌詞を掲げる。

学園歌「あかねさす」
一 あかねさす 東の空
  さわやかに ひらけゆく丘
  露にぬれ きらめく双葉
   ああ 双葉
   命輝き 睦み合う
     双葉によせて のびゆかん
   いざ 乙女われ
     名古屋 名古屋 保育大学
二 むらさきの 遥かなる山
  ゆるやかに 流れゆく雲
  晴々と 鳴きゆく小鳥
    ああ 小鳥
   誠あこがれ かれりゆく
     小鳥によせて 飛びたたん
  いざ 乙女われ
   名古屋 名古屋 保育大学
三 しろがねの 月清き園
  安らかに眠る 幼児
  満ちたりて 微笑む母よ
    ああ 母よ
  心かたむけ 育くめる
     母によせて いそしまん
   いざ 乙女われ
    名古屋 名古屋 保育大学

 珠川善子は名古屋市保母養成所の創設に尽力し、その後、名古屋市立保育専門学園、名古屋市立保育短期大学で活躍した人物である。明治36年(1903)11月愛媛県松山市の生まれ、東京保姆伝習所(現彰栄保育福祉専門学校)の卒業で、私立盛岡幼稚園、私立敬愛小学校附属敬愛幼稚園を経て、名古屋市に保母長として迎えられた。前述の「名古屋市立保育養成所職員現員現給表」によれば、名古屋市の採用年月日は「昭和十一年(1936)一月二一日」である。昭和21年(1946)名古屋市主事に昇進した。同年の名古屋市保母養成所の開設にあたっては養成主任(名古屋市保母長兼務)、昭和23年の名古屋市立保育専門学園の開設にあたっては初代学園長を務め、昭和28年(1953)名古屋市立保育短期大学の設置により同学教授、昭和36年(1961)より第2代学長を務めた(昭和44年〈1969〉まで)。昭和41年(1966)からは社団法人全国保母養成協議会の第4代会長を務めている(昭和45年〈1970〉まで)。昭和45年に68歳で逝去した。


名古屋市立保育短期大学

 昭和28年(1953)、名古屋市立保育専門学園を改組して、名古屋市立保育短期大学が設置された。前年の昭和27年(1952)10月、名古屋市は文部省に名古屋市立保育短期大学設置認可申請書を提出し、翌28年1月、設置が認可され、名古屋市立保育短期大学が誕生した。学科は保育科、入学定員は50名(総定員100名)、教員は学長1名、教授3名、助教授4名、講師1名で、位置は名古屋市立保育専門学園と同一の名古屋市昭和区白金町三丁目十一番地であった。初代学長には名古屋市教育館館長を務めた遠藤邦三が就任した。「名古屋市立大学および前身校関係史料」には、昭和二十七年十月十七日の名古屋市長小林橘川から文部大臣岡野清豪あての設置認可申請書の正本一部、副本二部が存在する。この申請は認可された。「名古屋市立大学および前身校関係史料」には、これを文部省が認可した設置認可の書類が存在する。以下にこれを引用する。

地大22号
昭和28年1月31日

名古屋市長殿


文部省大学学術局長
福田清助(朱角印)


短期大学設置について

 昭和27年10月20日付で申請のあった名古屋市立保育短期大学設置のことは、別紙認可指令書のように認可になりましたので、その運営および設置認可条件の履行については、遺漏のないようお取り計らい願います。

 昭和35年(1960)、入学定員が50名から80名へと増員され、翌36年(1961)には、珠川善子が第2代学長に就任した。昭和40年(1965)、入学定員が80名から160名に増員された。同年、手狭で周辺の騒音に悩み、校舎が老朽化していた白金町の校舎から、愛知県東春日井郡旭町大字新居字平子の新校地に移転した。新校地への移転は珠川の悲願であったという(前掲、青山大作「「聖」とも申し上ぐ珠川善子先生」)。新キャンパスは交通至便ではないが、校地が広く静謐で、自然環境に恵まれた豊かな教育環境であった。この校地は同短期大学が閉学するまで用いられた。
 これに先立ち、昭和37年(1962)、学内に幼児教育研究部が発足し、翌38年(1963)、名古屋市が認可して、名古屋市立保育短期大学幼児教育研究部が設立された。これは対外的には名古屋市立保育短期大学附属幼児教育研究所として活動し、幼児教育に関する共同研究の中心拠点になった。また昭和41年(1966)6月、附属実習園のふたば園が開園した。その源流は、昭和12年(1937)に開設された名古屋市立社会館保育部で、これは同25年(1950)には名古屋市立保育専門学園附属保育園と、同28年(1953)名古屋市立保育短期大学附属保育園と、同41年には名古屋市立白金保育園と改称し、同6月、愛知県東春日井郡旭町に名古屋市立保育短期大学附属実習園(ふたば園)として開園した。この園は、幼稚園でも保育園でもない、折衷形式の実習園として運営され、先端的、実験的な保育・幼児教育と学生の実習が行なわれた。
 さらに、昭和52年(1977)、初等教育科が設置された。前年の昭和51年6月、名古屋市は文部省に初等教育科設置認可申請書を提出し、翌52年1月、設置が認可された。この増設によって、名古屋市立保育短期大学は保育科と初等教育科の二つの科を擁する組織となった。初等教育科の入学定員は40名であった(保育科の入学定員を160から150名に変更)。「名古屋市立大学および前身学校関係史料」には、昭和51年6月30日の名古屋市長本山政雄から文部大臣永井道雄あての名古屋市立保育短期大学初等教育科認可申請書(副本)が存在する。
 名古屋市立保育短期大学は、保育および初等教育に携わる人材を養成する短期大学として、これ以後、平成9年(1997)3月の閉学まで活動した。この間、数多くの保母、小学校教諭を養成して世に送り出した。学長は、遠藤邦三、珠川善子、中西正雄、加藤善三、南川幸、伊藤信義、岸本英正が務めた。同学で修学した学生は、昭和29年度から平成8年度の卒業生まで総数5572名を数える。
 平成8年(1996)、名古屋市立保育短期大学は市立三大学統合によって発展的に解消し、保母養成課程は人文社会学部の人間科学科(平成25〈2013〉に心理教育学科に名称変更)に引き継がれ(初等教育課程は非継続)、4年制の学士課程において保育士の養成を今日に至るまで継続的に実施している。教員はそれぞれの専門分野に従って人文社会学部、芸術工学部へと転出した。

参考文献
名古屋市立保育短期大学同窓会さわらび編『あかねさす――幼児教育の為に一生を捧げられた珠川善子先生追悼文集』名古屋市立保育短期大学同窓会さわらび、1979年
五十年史編纂委員会編『名古屋市立保育短期大学五十年史』名古屋市立保育短期大学、1997年

(2)名古屋市立女子短期大学

名古屋市立女子専門学校

 ここでは、名古屋市立女子短期大学、およびその前身の名古屋市立女子専門学校の歴史を略述する。この節の叙述にあたっては、『名古屋市立女子短期大学50年誌』に多く依拠するとともに、「名古屋市立大学および前身校関係史料」を参照した。
 昭和22年(1947)6月、名古屋市立女子専門学校が開校された。設置された科は経済科(入学定員100名)、被服科(入学定員50名)、保健科(入学定員50名)の三科で、修業年限は3年間だった。校地は名古屋市中区菊里町18番地で、名古屋市立第一高等女学校(1948年10月から名古屋市立菊里高校)の敷地の一部に間借りする形で開設された。校長事務取扱は力丸政吉、専任教員6名、嘱託教員12名、事務職員3名での開校となった。2年目には6名の教員が加わった。同年10月、保健科を生活科に名称変更した。
 名古屋市立女子専門学校が開学された時代の名古屋市の高等教育の様相や地域の要望について、『名古屋市立女子短期大学50年誌』(該当部分は森正執筆)は、『名古屋市立女子専門学校・名古屋市立女子短期大学関係資料綴』を参照して次のように述べる。やや長くなるが引用したい。

1946年段階において名古屋市は、名女医専と名薬専という二つの専門学校を有していた。そして翌47年には、三つ目の専門学校(名古屋市立女子専門学校)の設置を47年2月26日付で文部省に申請する。新年度開始が1カ月後に迫った時点での申請であった。申請書(『市立女子専門学校新設関係書類綴』所収)には、五つの設置理由が挙げられている。すなわち、第一は、文化国家建設の一翼となるため、第二は、民主主義の観点から女子教育が必要であるため、第三は、女子の高等教育充実を求める市民の声が高まっているため、第四は、女子専門学校設置は名古屋市の文化向上に資するため、第五は、早急に設置するべき理由が存在するため、ということであった。
(中略)
ここで注目したいのは、女子の新たな高等教育機関の設置について前年の1946年から、「地元の熱烈な要望」があったということである。敗戦後の全国的な傾向であったが、愛知県、名古屋市においても女子の高等教育進学希望者が急激に増え、(中略)設置の第三の理由には、「是非とも市立の専門学校或は女子大学を設立すべしとの市民の声は次第に高まり」と記されている。(中略)第四の設置理由に、「名古屋市文化向上のため創設女子専門学校の将来は学制改革実施と共に女子大学に昇格せしめ最高文化の一殿堂として益々内容を充実しその機能を発揮せしめたい」と記しているのである。

 名古屋市立女子専門学校では、入学生に3年間の教育を行ない、昭和25年(1950)3月に第1回卒業式を挙行した。その一方で、それと並行するようにして、学制改革に対応して、名古屋市立女子専門学校をどう改組していくかが熱心に議論されていった。戦後の学制改革では、男女間における教育の機会均等や、教育内容の平準化などを重要な目標として定め、これに従って大学の共学化を推進する方向性が示された。また、それと前後するようにして、昭和21年(1946)から女子専門学校が創設された。ただし、学制改革が進展すると、専門学校は新制度による学校へと移行することとされ、昭和24年(1949)、多くの旧制の専門学校(国立のすべて、公立、私立の多く)が新制の大学へと改組され、また昭和25年(1950)に短期大学の制度が発足すると、短期大学へと改組されていった。どちらにも改組されなかった専門学校は廃校となった。
 名古屋市立女子専門学校をどうするか。前掲『名古屋市立女子短期大学50年誌』によると、名古屋市は当初から女子大学への昇格を構想しており、名古屋市立女子大学設置案をまとめて、昭和23年(1948)7月29日付で文部省に名古屋市立女子大学設置を申請した。この間の様相について、同誌(該当部分は森正執筆)は、久徳高文(名古屋市立女子短期大学名誉教授、1995年没)の回想録(5)を引用して次のように述べている。

名女医専は1948年4月に名古屋市立女子医科大学へと衣替えをし、名薬専も衣替えを準備しつつあった。そのころの市女専をめぐる雰囲気と設置運動を、久徳はこう回想している。「廃校か大学昇格か――二者択一を迫る運命の時刻は、歯車の音高く女専の周辺をとりまいていた。設置者側から贅沢娘とみられ、家主の高校側から継子扱いを受け、学校自身は弱体ぶりをひしひしと噛みかめながら、学生・教職員・そして父兄と、この三者が一体となって、女子大への昇格を成就させるため、狂奔に狂奔を続けて、ために寧日も無かった。」

 しかし、この名古屋市立女子大学設置の申請は認可されなかった。なぜ認可されなかったのか。その理由を記した資料には出会っておらず、不明であるが、憶測するに校地校舎に問題があったためではないかと推察される。
 翌昭和24年(1949)になると新しい動きが起こった。この年、名古屋女子医科大学から名古屋市立女子専門学校に統合の話がもちかけられたという(6)。これを前向きに受けとめた名古屋市立女子専門学校は、名古屋女子医科大学の学長(戸谷銀三郎)や教授と協議を重ね、教員のリスト、備品図書のリストを提出し、両校教員の顔合わせも行なわれた。両校が統合するとの動向は新聞でも報じられた。だが、同年9月、この話は御破算となった。その理由は「市立薬科大学が代わって入って、医薬二学部を擁する市立大学構想が纏まったからである」(7)という。こうして、名古屋市立女子専門学校が名古屋女子医科大学と統合する案は日の目を見ることなく消えていった。設置者である名古屋市は、医薬の二学部で名古屋市立大学を創設する案を推し進めた。
 なお、後述するように、それから45年後の平成8年(1996)、市立三大学の統合がなされて、名古屋市立女子専門学校を母体とする名古屋市立女子短期大学は名古屋市立大学に統合・合流していった。この合流は、今日から考えれば時間を一部うしろに巻き戻したようなところがあり、必ずしも単線的には進まない現実の歴史の皮肉で跛行的な展開とも言えるだろう。仮に昭和20年代前半に名古屋市立の3つの専門学校が統合する案がまとまっていたなら、名古屋市立大学はもっと早く発展を遂げていた可能性がある。ただ、焼け跡となった名古屋市が復興するのは容易なことではなく、大学に関しても校地校舎問題が大きな足枷になっていたものと推測される。
 こうして、名古屋市立女子専門学校は、刻々と迫り来る時間の中、女子大学に改組・昇格する道や市立大学に統合する道を断念し、新制度として発足した「短期大学」として歩む道を進むことになった。昭和25年(1950)4月、前月に第一回入学生を卒業させたばかりの名古屋市立女子専門学校は、名古屋女子短期大学へと改組された。同年3月には、名古屋市立女子専門学校の別科が廃止され、翌昭和26年(1951)3月、名古屋市立女子専門学校は学校教育法第94条により廃校となった。同年3月26日、第二回卒業式が閉校式を兼ねて実施された。同校は4年足らずの活動で幕を閉じた。
 次に、学園歌を掲げておく。これは昭和24年(1949)に作られたもので、公募によって集まった作詞6篇の中から全員投票によって1篇が選出され、その歌詞に音楽担当教員(非常勤講師)が曲をつけたものである。この学園歌は名古屋市立女子短期大学に引き継がれ、長く歌い継がれていった。

学園歌
 作曲 山上豊   作詞 久徳高文
一  はるかなる  世の旅ゆきの
   ひとときを  ここに憩へば
   香ぐはしき  生命の泉
   たぎりわく  力にあふれ
   わが若き   心を濯ふ
二  さみどりの  妹のほとり
   知恵の果は  たわわにゆたに
   うるはしき  彩をばなせる
   あゆみきて  みなぎる思ひ
   わが若き   心はふるふ
三  遠長き    学びの道に
   高光る    日は隈もなし
   あこがれと  嘆きと夢を
   秘めてただ  より合う友よ
   ああわれら  さいはひ深し

名古屋市立女子短期大学

 昭和25年4月、名古屋女子短期大学が設置された。経済科(入学定員40名)、被服科(入学定員40名)、生活科(入学定員50名)の三科編成で、修業年限は2年間である。この短期大学は名古屋女子短期大学の名称で開学したが、同年12月、名古屋市立女子短期大学と名称変更し、以後閉学までこの名称で活動した。校地は、当初、名古屋市立女子専門学校と同じく、名古屋市立菊里高校の一部を間借りして発足したが、翌昭和26年(1951)4月、名古屋市北区志賀町380番地の新校舎に移転した。志賀町のキャンパスはもともと名古屋市が中学校を建設する用地として確保しておいたものであったが、当分の間活用するということで、名古屋市立女子短期大学のキャンパスとなった。待望の新キャンパスであった。同月、生活科が厚生大臣から栄養士養成施設として指定された。また、被服科の学生定員が40名から80名に増員された。昭和27年(1952)3月には第1回入学生を卒業させ、卒業式を挙行した。
 昭和29年(1954)4月、中学校(保健、家庭、職業)、高等学校(保健、家庭、商業)の教員免許状取得の課程を設置した。ただし、高等学校教員免許状課程は昭和30年(1955)4月に廃止された。その後、昭和36年(1961)4月、生活科の入学定員が50名から100名に増員され、同38年(1963)4月には経済科の入学定員が40名から80名に増員された。

菊里町時代の校門
菊里町時代の校門

 同年4月、名古屋市立女子短期大学は北区志賀町のキャンパスからもとあった中区菊里町の地に戻った。志賀町のキャンパスに中学校を建設する計画が持ち上がって移転を余儀なくされ、ちょうど名古屋市立菊里高校が菊里キャンパスから星ヶ丘キャンパスへと移転してキャンパスが空いたからであった。今度は女子短大が間借りではなく、キャンパスを独占して使用する形となった。志賀町のキャンパスは、現在、名古屋市立北陵中学校になっている。しかしながら、菊里キャンパスに移転したものの、ここはやはり手狭であり、7年後の昭和45年(1970)9月には千種区北千種町愛宕1番地9の萱場キャンパスに移転した。これは待望の新キャンパス、新校舎であり、校地面積は9266平方メートルから25967平方メートルと約3倍になった。なお、萱場キャンパスの地は住所表示変更によって、昭和55年(1980)11月以降、千種区北千種二丁目1番10号となった。以後、同学は閉学までこの地で活動し、同学閉学ののちは名古屋市立大学芸術工学部のキャンパス(萱場キャンパス〈北千種キャンパス〉)となって今日に至っている。
 この間のめまぐるしいキャンパス移転について、中尾隆定名古屋市立女子短期大学名誉教授は、「昭和22年に女子専門学校が設立されて以来、菊里で4年、志賀で12年、再び菊里に戻って7年、23年間流浪のような生活をしました。1970(昭和45)年に萱場に移ってここに安住の地をえまして、今年の3月で萱場が25年でございます。最初の23年間がいわば創業の時代であり、萱場に移ってからは安定した充実発展の時期であったかと思います」と述べている(8)
 前述した学生の入学定員の増員は、名古屋市立女子短期大学に対する社会の評価が高まり、受験生からの人気が集まった動きに沿うものであった。『名古屋市立女子短期大学50年誌』(該当部分は安川悦子執筆)によると、全国の短期大学に入学する学生は、1960年から65年にかけて倍増し、1975年までの15年間では5倍以上に増えたという。名古屋市立女子短期大学への入学志願者も年々増加し、入学試験の難易度が高い短期大学として名が知られていった。同誌は、こうした動向について、高度経済成長の時代に総務的な事務作業を要領よく行なう女性が必要とされ、また企業の男性社員と結婚して家庭の経営を能率よく行なう「専業主婦」となる女性が必要とされていたと分析し、短期大学の専門領域として割り当てられた「家政学」は、女性の領域として多くの女性を引きつけたと批判的に分析している。しかし、その一方で、女子の高等教育機関として短期大学では十分な役割を果たすことができないとの思いは伏在し、名古屋市立女子専門学校開校以来の四年制大学化を目指す志向が強まっていったという。この間、時代の空気は、昭和43年(1968)にはじまる「大学紛争」などを経て大きく変化し、「女性」というキーワードが重要な意味を持つようになり、「良妻賢母」に代わって「自主的で行動的な女性像」が積極的に肯定されるようになり、伝統的な家政学は脱構築を迫られていったという。
 名古屋市立女子短期大学では、昭和55年(1980)、一般教育科目の中に〈総合科目〉の「女性学」が設置され、5名の専任教員が講義を担当した。女性をめぐる諸問題を学問的かつ分野横断的に考察する講座が開設されたのである。この科目は市民に公開され、教室で学生と市民とがともに学び、議論する場となった。今日、全国の大学で積極的に取り組まれている社会貢献、市民参加の活動が、名古屋市立女子短期大学では、すでにこの時期に先駆的に実施されていった。
 次いで、平成元年(1989)、附置研究所として生活文化研究センターが設立された。このセンターは、「生活」と「文化」をキーワードに旧来の家政学を脱構築する研究を推し進める拠点となり、複数のプロジェクト研究が実施された。また、ここを窓口にして種々の公開セミナーや公開実験講座、講演会などが行なわれ、広く市民や社会人に研究成果を発信する連携の場として機能した。


四年制大学化と閉学

 名古屋市立女子短期大学では、長く四年制大学化の道が模索された。昭和38年(1963)、教授会では複数の四年制大学案が議論され、同46年(1971)には長期計画委員会が組織されて議論が深められ、同49年(1974)には学長のもとに将来計画推進会議が設置されてさらなる「新構想女子大学案」が検討された。一方、昭和55年(1980)1月に策定された「名古屋市基本計画」には「市立三大学の拡充整備」が計画項目に掲げられ、これに基づいて、昭和57年(1982)~58年(1983)には「名古屋高等教育懇話会」が設置、開催され、次いで昭和59年(1984)~昭和60年(1985)には「三大学将来構想検討委員会」が設置、開催された。これらの議論によって、昭和60年(1985)7月には「21世紀を展望した市立三大学の将来方向について」がまとめられた。
 名古屋市立女子短期大学では、三村耕学長のもと、昭和61年(1986)10月に「名古屋市立生活文化大学(仮称)」の第一次案をまとめられ、生活学部(仮称)構想が議論されていたが、名古屋市は家政系の学部構想は21世紀を展望するには弱いとし、新たな構想の再構築がもとめられた。また、名古屋市立保育短期大学との統合や、名古屋市立大学の教養学部との統合が視野に入れられるようになった。こうして、平成5年(1993)7月、統合・四年制大学化準備検討委員会が設立され、同年10月には、第1回市立三大学の統合に関する整備委員会が開催された。
 こうした議論を経て、名古屋市立女子短期大学、名古屋市立保育短期大学、名古屋市立大学教養部の三大学は統合、再編されることになり、名古屋市立大学に人文社会学部、芸術工学部、自然科学研究教育センターが設置された。名古屋市立女子短期大学の経済学、経営学、社会学、哲学、歴史学、文学、教育学の分野は人文社会学部の現代社会学科、人間科学科に引き継がれ、コンピューター・グラフィックスなど理系に関わる分野は芸術工学部に継承、発展されていった。教員はそれぞれの専門分野に従って人文社会学部、芸術工学部へと転出した。
 名古屋市女子育短期大学は、名古屋市の女子の高等教育を支える短期大学として、平成9年(1997)3月の閉学まで活動し、多くの人材を世に送り出した。学長は、力丸政吉、中西栄作、大町文衛、有山兼孝、高岡實、三村耕が務め、最後の学長は安川悦子が務めた。同学で修学した学生は、昭和25年(1950)度から平成8年(1996)度の卒業生まで総数10754名を数える。

参考文献
名古屋市立女子短期大学50年誌刊行編集委員会編『名古屋市立女子短期大学50年誌』名古屋市立女子短期大学50周年記念事業実行委員会、1996年
名古屋市立女子短期大学『学生論叢』創刊号、1969年
同6、1974年
同20、1988年