名古屋市立大学の歴史

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第Ⅰ章 前身校の歴史

4. 看護学部の前身校

(1)名古屋市民病院附属看護婦養成所

 昭和6年(1931)7月、新しく名古屋市民病院(名古屋市立大学医学部附属病院の前身)が開設されることになった。これにともない、従来の城東病院附属看護婦養成所が廃止、名古屋市民病院附属看護婦養成所が新設され、同養成所は、その年の10月27日、愛知県知事より看護婦養成機関としての指定を受けた。これに関する史料(昭和6年10月27日「名古屋市民病院附属看護婦養成所 看護婦養成機関指定書(写)」『認可書類綴(永久)』所収)が「名古屋市立大学および前身学校関係史料」の中に現存している。以下にそれを引用する(なお、同文書のレプリカを大学史資料館に展示している)。

指令衛第二一、二〇六号
          名古屋市民病院附属看護婦養成所
大正四年六月内務省令第九号看護婦規則第二条ニ依リ指定ス
  昭和六年十月廿七日
             愛知県知事 香坂昌康 印

 これ以降、同養成所は名古屋地域の看護婦養成の中心機関として活動していく。これが本学看護学部の母体であり、看護学部の歴史のはじまりになる。
 同養成所の入学資格は、高等小学校卒業または高等女学校2年以上の課程を修業した15歳以上25歳以下の女子とされ、入学定員は20名、修業年限は2年であった。昭和11年(1936)4月には、一般教養科目の不足を補う目的で、修業年限が3年に改定され、以後、太平洋戦争の勃発および戦局の拡大と終戦後の政策といった時代の変化により、修業年限は改定が繰り返されていった。

(2)戦時中の看護婦養成所

 昭和18年(1943)4月、本学医学部の前身となる名古屋市立女子高等医学専門学校が開校された。これによって、名古屋市民病院は同校の附属となり、名称も「名古屋市立女子高等医学専門学校附属医院」と改称された。これにともない、名古屋市民病院附属看護婦養成所も「名古屋市立女子高等医学専門学校附属医院附属看護婦養成所」と改称された。さらに昭和19年(1944)、戦争の激化にともなう戦時特例により、名古屋市立女子高等医学専門学校の修業年限が5年から4年に、同看護婦養成所の修業年限が3年から1年に短縮され、名称もそれぞれ「名古屋市立女子医学専門学校」、「名古屋市立女子医学専門学校附属医院附属看護婦養成所」に改称されることになった。修業年限の短縮は、戦局拡大による医師・看護婦不足に対応するためであった。
 このように、戦時中の看護婦養成所は、日々変動する戦争状況に左右されるように、随時、そのあり方を変えていったと言えよう。

(3)看護婦養成所の終わり―新しい看護教育の時代へ―

 昭和20年(1945)の終戦により、1年に短縮された修業年限は2年に改定された。終戦後は、GHQ主導のもとで、日本の看護教育の改革が行われ、その一環として、昭和23年(1948)7月、「保健婦助産婦看護婦法」が制定された。
 「保健婦助産婦看護婦法」とは、昭和22年(1947)7月に廃止された保健婦規則・助産師規則・看護婦規則に代わる法律で、その内容は、これまで別個の職種だった保健婦・助産婦・看護婦を看護職として一本化し、それに関する教育課程や免許資格などを定めたものであった。この中で、看護婦は「甲種看護婦」と「乙種看護婦」に区別され、「甲種看護婦」の条件として、高校を卒業し、文部省または厚生省が認定する3年制看護学校を卒業した後、国家試験に合格し厚生大臣より免許を得ることが定められた(昭和26年〔1951〕の法改正により、甲種・乙種の区別は廃止)(9)
 終戦後、看護教育と同じく医学教育も改革されたことを受け、名古屋市立女子医学専門学校の大学昇格が企画され、昭和22年(1947)6月、名古屋女子医科大学が開設されることになる。そして、昭和24年(1949)3月、来院したカルソン女史(GHQ)とバブル女史(東海北陸民事部)から名古屋市における甲種看護婦学校新設の指導を受け、同年4月、名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校が開校されることになった。高等厚生女学校の新設によって、昭和6年以来の看護婦養成所の教育は終わりを迎え、昭和25年(1950)3月、最後の学生(昭和23年度入学)の卒業をもって、看護婦養成所は19年の歴史に幕を閉じた。看護婦養成所時代の卒業生の総数は352名であった。

参考文献
名古屋市立大学20年の歩み編集委員会編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年
名古屋市立大学看護学校編『名古屋市立大学看護学校30周年記念誌』1980年