学部・研究科・附属病院の歴史
学部・研究科・附属病院の歴史
昭和18年、全国最初で唯一の市立女子高等医学専門学校が開校しました。たくさんの志望者が殺到し、私も何となく志望しました。1000人中80人合格しました。現在の博物館がある場所に市大病院があり、そこの三階で入学式が行われました。校長は戸谷銀三郎先生で、式の途中、めまいで倒れられた事を記憶しています。宣誓のあとは、一斉に熱田神宮へ参拝しました。
瑞穂運動場から田辺通まで、今の田辺通薬学部付近は、「全部あなた方の入学された学校の敷地です」と説明をうけました。松林があり素晴らしい雰囲気で、そこに学生寮ができると聞き大変うれしく思いました。次の年には田辺通の敷地に解剖学実習室が作られました。戦時中なので、実習を始めようとすると空襲警報が鳴り、片づけると警報が鳴りやむということを何度も繰り返しました。
その後、階段教室も作られました。当時は食糧難でしたから大学の草むらで麦などを作って食べました。昭和20年初め頃、とにかく早く医者を育てなければいけないとうことで毎日授業がありました。ある日外科学の教授が授業を始められた時、空襲警報が鳴りました。三階の教室で逃げるところはないので、私達はバラバラと散り散りになりました。友達と道路に出て適当に走ったら防空壕を見つけましたが、中から締められて入れません。ブーンと音がしたので見上げるとB29が空一面になり飛んできました。
B29は私と友達二人を目がけて飛んでくるように見えました。飛行機の下からバラバラと爆弾を落としてくるので、もうだめかと思っていたら、爆弾は真下ではなく斜めに落ちていきました。千種区にある軍事工場がやられた日のことでした。あまりに怖くてぽかんとしていたら下から防空壕を開けてくれた人があり、それで命拾いをしました。
空襲になると学校から4キロくらいの道を走って帰りました。ある日、また空襲警報がなって、その日はなぜか家とは反対の方へ逃げました。高辻のあたりに爆弾が落ち、たくさんの人が亡くなりました。帰り道にあたるので兄はてっきり私が亡くなったとばかり思ったそうです。戦争で亡くなったのは一回生の中では一名でした。
我が家が空襲にあった昭和20年3月12日の夜のことです。いつもは警戒警報が鳴っても、間もなくすると解除されるのですが、その日は警戒警報が空襲警報になり、しばらくするとブーンとB29がたくさん飛んできました。周囲に爆弾がバラバラと落ちて庭にあった防空壕の近くが火の海になりました。仏壇の横にも焼夷弾が落ちました。母がこれを持って逃げなさいとボストンバッグを抱えてきました。バッグの中身はお位牌ばかりで軽いものでした。しかし周囲は火の海で、逃げようがありませんでした。朝になると、海と陸の風向きが変わって火が消えました。焦げ臭い家の中を眺めていると、私はふと、明日、病理学の試験だということに気がつきました。それで枕元に置いておいたわざわざ新潟まで買いに行った分厚い病理学の本の事を思い出しました。表紙は焦げて端は黒焦げになっていましたが中身は無事でした。しかし次の日の授業はありませんでした。熱田駅から見ますと一面焼け野原のように見えましたが、我が家の辺りは焼けながらも残っていました。警防の男の人が二人、門の前に立って守ってくれていたのだと後になって聞きました。
8月に終戦になり、何をするかもわからなくて虚脱状態でした。そんな頃、学生引揚者援護連盟ができ、中国からの引揚者が夜行列車で東京へ運ばれる途中、私達は近くの仮設診療所へ病気の人を連れていったりしました。ある日担架で破水した妊婦さんを運びました。無事、女の赤ちゃんが生まれました。体重を計るのを忘れていました。
母校は名古屋市立高等女子医学専門学校から名古屋市立女子医科大学となり、その後名古屋市立大学医学部とうつり変わりました。そして医学部となってからは男子学生が多くなり、というよりほとんど男子になりました。そして昭和43年やっと医学部同窓会が発足、初代会長は新制医学部初代卒業生の水谷孝文先生、副会長に同じく1回生の堀井秀夫先生そして女子医専1回生の青山光子が就任しました。各卒業年次から理事も選ばれ同窓会として活動するようになりました。
さて会議を開きたいと思っても部屋がありません。今回の会議は1階の○○教室、次は2階の○○教室というように私が事務局と御相談してその時空いている教室をお借りしたりして会議が開かれました。そんなことから各年次の理事から同窓会の部屋が欲しい、同窓会館があったらという声がさかんに出てきました。もちろん大学はまだ整備の途中でとても同窓会の事までは考えられてない状態でした。
昭和49年同窓会長が和田先生の時になり、こんな御相談を受けました。同窓会館を建てるなら黒川紀章先生にお願いできないか私に頼んでほしいというのです。黒川先生はすでにその頃世界的にすばらしい建物を沢山作られて有名な方でした。名古屋駅近くにあるビルも設計されたと聞きました。私は黒川先生と以前座談会か何かで御一緒してよく存じ上げていました。先生は名古屋御出身で東海高校を出ていらっしゃることも知っていま した。ある会議に出席した時、私に声をかけていただいてお話をしたこともありました。そんなことから黒川先生なら喜んでお願いに行きたいと思いましたが、残念ながら世界中を飛び廻って活躍していらっしゃるので、なかなかお目にかかることは難しいと思いました。
そこでふと思いついたのは黒川先生の御父君でいらっしゃる黒川巳喜先生のことでした。巳喜先生とは俳句の会で御一緒で私のことも可愛がってくださっていました。そこで早速鶴舞公園の近くにある御宅を訪問することにしたのです。黒川巳喜先生はとても喜んで私の話を聞いてくださいました。名市大医学部で同窓会館を建てたいけれど、御子息の紀章先生にお願いしたいということを図々しくもお願いしたのです。巳喜先生はとてもお優しい方で私のあつかましい話をにこにこと聞いてくださいました。そのあとお尋ねがありまして「予算はどれくらいあるの?」と。むこうみずの私は和田先生と建設費のことは何もお話していません。ドキッとしましたが、いいかげんな私のこと、えーと3000万円位あると思いますと答えたのです。
後で考えたらあの世界的に有名な方に3000万円の建築費などとお答えしたことに冷や汗が出ました。
ニコニコとして聞いてくださった巳喜先生が「よくお話はわかりました。でも息子はとても忙しくて名古屋にもなかなか来てないので息子に話して私が代わりに設計をして息子が監修という形にしてはどうでしょうか」ととてもお優しい言葉をいただきました。
それでは具体的な建設費の費用など決まりましたら、その時にまたお伺いしますと冷や汗をかきながらお宅を引き揚げたのでした。和田会長さんとも御相談して会館を建てるにしてもお金がない、それどころか建てる場所もないということで、まず敷地を確保しようということになりました。
同窓会館を何とかして作りたいという気持ちで大学の構内をあれこれ見廻しましたが、 なかなかそんな空地がないような様子。 ある日、 当時同窓会長だった山路兼生先生とご一緒に医学部長の青地修先生のところに「同窓会館を作りたいのですが、 どこかにそのような空地はないでしょうか」と御相談に行きました。 先生は大変好意的な御様子で「考えておきましょう」と御返事をいただきました。 それから数力月ほどして、 青地先生から同窓会長と私にお会いしたいという御連絡がありました。 にこにことして先生は先日同窓会館のお話を聞きましたが、「実は生協の建物の隣の部分を使って1階は生協の食堂と売店、 そして2階を同窓会館にしてはどうでしょうか」と思いもかけない嬉しいお話でした。 大喜びでそのように是非お願いしますと山路先生とお願いしましたところ青地先生が建てるのにはお金がいりますが大丈夫 ですか?と尋ねられました。 今まで建築費のことは全く考えてありませんでしたが、 何とかしますからと御返事しました。そうしたら先生が笑いながら、もしお金が集まらなかったら貴方たちにフィリッピンに行っていただきますよとおっしゃるのです。はじめは何のことかわかりませんでしたが、 先生の御説明で良くわかりました。というのは当時保険金詐欺の一種で適当な人を見つけて高額の保険金をかけフィリッピンに連れて行って海に落としてその保険金を横取りするという事件が数件あったのです。そのことを冗談に先生がおっしゃったことが分かりました。でもそれをお聞きしてもし同窓会館のためのお金が集まらなかったらどうしようという不安で一杯になりました。 けれども楽天家の私は「どうにかしよう」という気持ちで早速、 趣意書を作り同窓生全員に募金のお願いを出しました。でもどれくらい同窓生にご寄付いただけるかとても不安でした。しばらくすると次々に寄付金が送られてくるようになりました。中にはかなり高額の寄付をしてくださるもあったりしましたが、まだ予定額には達しません。私自身も寄付しましたが、初代同窓会長水谷先生のところに厚かましく寄付をお願いに出かけました。 その時先生はにこにこして、一寸事務の人と相談しますと言って部屋を出て行かれましたが間もなくしてあなたの希望通りの額をお出ししますと思いがけず高額の寄付をいただき、 その時は本当に嬉しく思いました。次々に送られてくる寄付金の中には高額をお送りくださる方もあり、また建設を知って事務局の方とか薬学部や経済学部の方からもご寄付をいただき感激しました。 再度のお願いをして結局合計58,118,746円となり御蔭さまで同窓会館の建設ができることになりました。建築は大学の建築を担当しておられる市の建築局の方が引き受けて下さいました。どんなのを建てたいのかと聞かれ、 私は屋根は赤い瓦にして中は会議室と事務室とロビーが欲しいと伝えまして一応赤い瓦は私の希望通りになりました。ところが面積の関係でテーブルを並べると35人位しか座れないような形になってしまいました。それで面積が一杯となり、事務室とロビーも作れない有様、私ががっかりとして会議室を出てくると37年卒の土屋隆先生が来られて私の知人の設計士に相談してみますから図面を貸して下さいと図面を持って帰られました。1週間後、土屋先生から図面が返送され、 嬉しいことにその図面には会議室をしっかり取り、その上事務室や階段を上がったところにロビーさえ作られているではありませんか。私は大喜びでこの図面のように建設することを建築士に依頼しました。
やれやれと思ってのんびりしていましたら大変なことが起こりました。内装の壁面の色などを建築士にお任せしていたのです。かなり内装が出来上がったところで見に行きましたらなんと暗いこと。壁に貼られている板の色が黒っぽいのです。いい意味でいえば重厚といえるかもしれませんが、私の考えていた明るい部屋のイメージとは全く違うのでした。 今さらこれに色を塗って明るくするわけにもいかないしと私ば悩んでしまいました。
そうだ、 部屋が暗かったら机の色でカバーしようと考えたのです。早速指定された店に行き机の色を調べ、机面が白っぽいものを選んだのです。これで少しは部屋が明るくなるとホッとしました。 いろいろの家具調度品を集めやっと完成です。 後援会からは有名な作家の額をいただきました。
寄付していただいたお金の監査には経済学部の同窓会長前田勝昭先生にお願いして無事に会計も終わることができました。いろいろ不満足な点もありましたが念願の同窓会館ができあがったことで私はホッとしました。青地先生が同窓会館で一度教授会を開きましょうとおっしゃっていただいたときはとても嬉しく思いました。ただもう少しスペースがあれば当時の教授の人数が36名位でしたからゆったり入れたのにと残念でした。でもとにかく念願の同窓会館ができ、それからは理事会や役員会も全部会館で行うことができるようになり会場の苦労はなくなり私もホッとしました。同窓会館の建設には医学部卒業生だけではなく、医学部関係者、他学部の卒業生、教職員の方にも御援助をいただきました。御協力をいただいた多くの皆様方に心から御礼を申し上げたいと思います。
昭和18年4月、女子医専の一回生として入学。新しい学校の為に制服も帽子もありませんでした。昔は角帽というと医学部に入学した男子がかむるものでした。制服は半年後にやっと出来上がりましたが帽子はありませんでした。当時、東京、大阪の女子医専では、房のついた角帽をみんなさっそうとかむっていて東京育ちの女性は、名古屋の女子医専に入学したと言っても誰も角帽をかむった姿を見せたことがないので他校のものをかむって実家に帰って見せました。それで、みんなも角帽が欲しいという話になり、一度先生にお話してみましょうと生徒主事のところへ行ったら「そんなものどうして欲しいの?」と言われがっかりして帰ってきました。担任の他の教授にもお願いに行きましたが「あの大黒様の頭巾みたいなものね」と言われてがっかりしました。そこで、みんなで作りましょうということになり、病院の前にある制服屋さんにお話しましたら、早速作ってくださいました。校章は金鯖の模様がついていました。出来上がってかむってみると何となく照れくさくてかむりにくい感じがしました。せっかく作ったのに全員がかむらなくて、一部の人だけかむりました。 でもそのうちにだんだんとかむる人が増えてきましたが、 結局全員がかむっているのはアルバムの写真だけでした。
毎年桜の季節になると山崎川がなつかしくなります。
昭和18年、女子医専の一回生として入学。入学式のあと全員で訪れたのが現在の名市大薬学部の正門附近でした。「ここが貴方たちの学校の予定地です」と言われて、よく見ると草のいっぱい生えた広々とした敷地の中に小さな川を見つけました。あら、こんなところに水が流れていると皆で驚きました。これが山崎川でした。
あれから40年以上たって当時の山崎川は立派な川になり、堤防には樹齢何十年という桜の木が植えられ、侮年桜の季節には大勢の人が夜も出かける有名な桜の名所の一つになりました。
先日、長い間出かけなかった山崎川の桜を見て、とてもなつかしく、月日のたつのがこんなに早いものとつくづく思わされました。
青山 光子(S23卒・元瑞友会会長)
(瑞友会会報第114号~第118号より抜粋)