学部・研究科・附属病院の歴史
学部・研究科・附属病院の歴史
自然科学研究教育センターは、 計算センター教員とともに教養部の理系教員を中核として、平成8年(1996)4月に発足した。
新制大学発足時に高く掲げられた教養教育の理念は、平成3年(1991)7月の大学設置基準の改正(いわゆる「大学設置基準の大綱化」)により潰え去り、教養教育の実施は各大学の良識に委ねられることになった。このような結末に至った理由は幾つも挙げられるが、その淵源は学科目制を敷いた教養部での研究・教育条件の劣悪さにあり、これを支える財政的措置も制度上の制約からか平成8年(1996)3月の教養部解消に至るまで、抜本的に改善されることはなかった。
教養部を改組転換して学部化し、研究・教育の活性化を図る動きは昭和50年(1975)前後からあったが、これが教授会の審議事項として取り上げられ、部内に「学部化検討委員会」が設置されたのは昭和52年(1977)10月である。平成元年7月には、大綱化を控えて、学内に「将来構想委員会分科会・教養部の在り方に関する検討委員会」が設置され、教養部の複合学部あるいは単一学部への改組が検討された。その検討過程で、 政令都市における学生定員の増加抑制、学部の教員定数、教員(公務員)の定員抑制など文部省、自治省の関係法令により、文系、理系併せて41名の教員で、教養部を単一学部あるいは複合学部へ改組することは困難であることが明白になった。平成4年(1992)6月「大学の将来構想に関する懇談会」が市総務局に設置され、この懇談会の提言に基づき、翌平成5年(1993)10月設置者から名古屋市立大学、女子短期大学、保育短期大学の市立三大学同時統合の構想が示された。教養部は市立三大学統合の中で改組を図る方針をとり、平成8年(1996)3月、文系教員は新設される人文社会学部・国際文化学科教員として学部に参加し、理系教員は計算センター教員とともに自然科学研究教育センター(生体科学系大講座、物質科学大講座、情報科学大講座)を発足させることとなった。学部化の流れの中で、時局を大局的に展望した理系教員の譲歩により、何の混乱もなく教養部の改組転換が円滑に実現したのは、第15代教養部長猪狩盛夫教授、第16代教養部長山本正康教授のリーダーシップのなせるところである。 また大綱化以降、 改組転換を模索する中で、労を惜しまず教養部長と共に奔走した教養部事務長松宮正、 大平勉の両氏は現在に至っても深謝されている。
平成8年(1996)4月の市立三大学の統合により、名古屋市立大学は医学部、薬学部、経済学部、人文社会学部、 芸術工学部と自然科学研究教育センター、平成11年(1999)4月に発足した看護学部を加え、6 学部、1 センターを擁する総合大学となった。教授定員14名、助教授定員8名、助手定員3名、技術員定員4名、計29名から構成される自然科学研究教育センターは、旧教養部実験棟(北棟)及び非実験棟(南棟)の一部、計算センター、トレーニングルーム(東棟)、仮設棟を活動拠点とし、これを事務長以下8名の教養教育・自然科学研究教育センター事務室が支える。教育面では、自然科学研究教育センターは、6学部の自然科学系、数理・情報系、健康・スポーツ科学系の教養教育科目を担当することになったが、教養教育の責任体制は、大綱化と教養部改組によって各学部に委ねられた。専門教育を専らにする学部に教養教育の責任を委ねている体制は、専門教育の都合で教養教育をどのようにでも扱えることを意味し、市立大学における教養教育の独立性が危惧されるところである。この点は、数多くの教養教育科目を特定の部局教員に担当させている点と併せて、今後に重要な課題を残すことになった。
平成12年(2000)4月には、独立大学院システム自然科学研究科(生体情報専攻修士課程)が自然科学研究教育センターを基礎として設置された。この背景には、 近年の生体科学や情報学を中心とした科学技術が、科学と技術の一体化を伴いながら学際的な広がりをもって急速に進展しており、社会人を含む多様な階層から、この複合領域における人材の育成を強く望まれていたことがあった。
平成8年(1996)4月の自然科学研究教育センター設置に際して、教員研究費予算単価は学科目制から講座制への移行に伴い約2倍に引き上げられたが、研究・教育の活性化をなお一層図り、自然科学研究教育センター(以下センター)を本学における基礎科学の研究・教育拠点として確かなものにするためには、本センターを碁礎とする大学院の実現が不可欠であるとの認識が、センター構成員全員に共有されていた。大学院構想を、平成12年(2000)4月を目標に実現すべく、初代センター長猪狩盛夫教授のもとで、「大学院設置準備委員会」がセンター発足と同時に設けられ、大学院構想の検討、他大学院の調査等が着手された。しかし、学部を基礎として大学院を設置する場合と異なり、学生の在籍しない機関が大学院を設置することは全国に例がなく、その実現の可能性は未知であった。
平成10年(1998)4 月、新たに「大学院設立準備委員会」が設けられ、研究科の名称、専攻分野等の大学院案について、30回に及ぶ委員会で検討を重ねて骨子案を作成した。研究科と専攻の名称は、それぞれシステム自然科学研究科、生体情報専攻とした。幅広い領域を対象とする研究科名称にして、将来の専攻増設の余地を残すと共に、在籍する教員の研究分野と社会的な要請を調整し、なおかつ文部省審査に耐え得る研究科とした結果である。大学院案はこの研究分野の専門家や民間の研究所,会社、財界方面いずれからも大変な好評を得た。これは、生体生命科学と情報科学を融合した生体情報専攻の分野が現在の社会的要請に応えているためと考えられる。平成 8 年(1998)の「大学院設置準備委員会」以来、62回に及ぶ委員会で検討を重ね、紆余曲折を経た成案であったが、平成11年(1999)12月、文部省から認可申請の原案に対して、何らの修正や補正意見を付せられることなく、システム自然科学研究科(生体情報専攻修士課程)の設置が認可された。また平成12年(2000)4月のシステム自然科学研究科発足に収束するまでの過程で、大学院構想案の検討に平行して、センター教員の人事補充の方向性を情報科学分野と生体科学分野に限定し、それらの分野を充実させる必要があった。センター所属の教員数が少ないうえに、各教員の専門分野が異なるためである。五里霧中を模索するような状況下で、このような諸々の難事を克服して研究科発足にまで至ったのは、センター教員に共有された危機感と第2代センター長山本正康教授の指導力に負うところが大きい。
平成12年(2000)4月に、杉浦昌弘教授を初代研究科長としてシステム自然科学研究科が開設された。授業の昼夜開講制、入試の社会人特別選抜制を特色とした本研究科は、初年度定員15名に対し51名の応募者があり、23名が入学した。システム自然科学研究科(生体情報専攻修士課程)の設置とその後の活発な学生応募状況は、ともすれば等閑視されていた基礎科学の分野にでも、柔軟な科目編成によって社会的需要を喚起し得ることを如実に示すとともに、このような社会的な需要と期待が、センター教員の研究・教育に対する意欲を一層昂揚するに至った。平成14年(2002)4月には、博士前期課程(生体構造情報系、生体制御情報系、生体高次情報系、生体物質情報系)の上に博士後期課程(生体要素情報系、生体総合情報系)が開設された。3年後の平成17年(2005)2月に課程博士(生体情報)3名に学位を授与し、博士課程が完成するに至った。
平成22年(2010)は、本研究科の設立10周年に当たる。この10年間に修士149名、博士12名を送り出してきた。この年の10月には、理学部同窓会の前身である研究科同窓会が正式に発足した。この年の前年度には、初代の研究科長である杉浦昌弘名誉教授が文化功労者に顕彰されるという嬉しい出来事があった。また、研究科に前年度開設し、この年から活動を本格化した“生物多様性研究センター”の名誉センター長にも就任していただいた。杉浦先生を始めとし、本研究科の得意とする遺伝子研究と地域の特性を活かした生物多様性の研究を進め、この夏には本研究科が中心となり、本学創立60周年記念事業である生物の多様性に関する国際シンポジウムISBDS2010(International Symposium on Biodiversity Sciences)を国内外から200名を超える第一線の科学者を集め開催した。これは、先端的な研究を推進すると共に、学部の設置、地域への貢献を通じ、自然科学の基礎を身に付けた有為な若者育成を目指した活動の一環である。
その後、研究科の研究と大学院教育の充実と活性化を図ってきた。平成26年(2014)には研究組織の再編を行い、平成27年(2015)の入学生からは専攻名を「生体情報」から「理学情報」とし、取得できる学位名称を生体情報から理学へと変更した。しかし、学部を持たない大学院の研究・教育上の不備や短所が顕在化するようになってきた。そのため、研究科将来構想委員会を設置して、大学院を基礎として新たな学部を設置する構想するに至った。平成30年(2018)4月の新学部(総合生命理学部)開設後3年目の令和2年(2020)には、学部からの進学の整合性等を考慮して、大学院の名称を理学研究科と改称するとともに、高等学校専修免許状(理科)の取得ができる教職課程を開始した。
令和2年(2020)度は、開学70周年であるだけでなく大学院を設置してから20年の節目の年に当たり、令和2年(2020)9月までに修士267名、博士19名を送り出してきた。研究科開設20周年記念事業を同窓会とともに予定していたが、残念ながら新型コロナウイルスパンデミックにより実施できなかった。
本学は地域に開かれ広く市民と連携する大学として歩み、とりわけ中部地域の健康維持と文化・経済の発展に寄与してきた。健康維持に関わる部局として医学研究科・医学部、薬学研究科・薬学部、看護学研究科・看護学部が、経済と文化に関わる部局としては経済学研究科・経済学部、人間文化研究科・人文社会学部、芸術工学研究科・芸術工学部、そして自然科学に関わる部局としてシステム自然科学研究科および自然科学研究教育センターがそれぞれ相互に関与しながら活動してきた。しかし開学以来、基礎自然科学を専門とする学部を持たない(学生を受け入れない)状況が続いており、これは総合大学として教育と研究における重要な一領域の欠如を意味した。また、愛知、岐阜、三重の東海三県には理学部を有する国公立大学が一つしかなく、自然科学を志す若者の受け皿が極めて少ない実態があり、早期の理学系新学部の設置が要望された。
理学系新学部の設置案については、平成21年(2009)に理学部環境理学科(仮称)を設置する構想案が議論・提起されたが、諸般の事情によりその計画が具体化することはなかった。その後も新学部設置の計画策定を絶やすことなく続け、平成25年(2013)度末に全学の学部・学科再編検討委員会及び役員会において正式に承認されるに至った。計画実現が現実味を帯びたのは平成26年(2014)4月の郡健二郎理事長の就任以降で、名市大未来プランの中に自然科学研究教育センターを改組した新学部設置が目標として掲げられ、早期設置に向けて一層の推進が図られることになった。研究科の将来計画・学部設置検討委員会が中心となって学部設置案をまとめ、同年11月には名古屋市との意見交換会で初めて学部設置構想の正式な説明を行い、さらに平成27年(2015)1月に名古屋市と2回目の意見交換会を持ち、次の第三期中期目標・中期計画期間中の早い時期の学部設置に向けて、着実な一歩を進めた。
新学部設置実現の最大の課題はイニシャルコストの削減であった。新学部の設置では学生受入れに対応できる建物や設備等を新規に準備するのが通例であるが、時の厳しい財政状況を考えると新学部棟の建設は極めて難しい状況にあり、実現可能な理学系新学部(総合生命理学部)の設置案を検討する必要があった。建物に関しては学内の強力なサポートを得て、滝子キャンパスの既存施設を最大限に有効利用することとなり、また医学部からは多くの研究機器を譲渡いただいた。さらに学部設置にともなう教員増を回避できるカリキュラム案を策定すると共に、医学部からは新学部向けの授業科目を提供いただいた。また、名古屋市教育委員会、愛知県教育員会、中部経済連合会、名古屋商工会議所からは学部設置に対して強いご支持をいただいた。この設置案によって大学の理事会、名古屋市の了承を得るに至り、平成28年(2016)に高校生や企業に対するニーズ調査を実施した後、平成29年(2017)3月に文部科学省に対して総合生命理学部総合生命理学科の設置申請をする運びとなった。また、この設置申請と同時に高等学校教諭一種免許状(理科)を取得できる教職課程の設置申請も行なった。同年5月に大学設置分科会から数学科目を必修化すべきとの付帯意見が出されたため、翌6月に補正申請を行なった。その結果、同年8月に全く付帯意見のない設置認可を得ことができ、速やかに学生募集を開始した。同年10月15日には、設置認可を記念して「未来を拓くサイエンス」と題した開学部記念シンポジウムを開催した。同月28-29日には名古屋市立大学、大阪市立大学、横浜市立大学および読売新聞社の主催で「第14回高校化学グランドコンテスト」を田辺通キャンパスで開催し、全国および台湾、シンガポールの64校から延べ631名が参加した。平成30年(2018)3月には後期日程で一般入試を行い、4月に新入生40名を第1期生として受け入れ、入学式では本学部生の村上瑞季さんが全学生を代表して宣誓文を読み上げた。同年6月には学部設置にお世話になった方々をお招きして盛大に学部設置記念式典を開催した。
年号が変わった翌年令和元年(2019)には、一般入試に加え名古屋市立向陽高校国際科学科に対する指定校推薦入試制度を、令和2年(2020)には名古屋市立高校向け推薦入試制度を追加した。また令和3年(2021)度からは私費外国人入試制度が始まる。また、令和2年(2020)からは、学部で学べる内容の充実のため薬学部との単位互換を始め、遠隔授業の普及と重なり多数の学生が制度を利用している。大学設立70周年に当たる今年度の段階で、3学年の学生130名が在籍し、第1期生は卒業研究を開始した。そして来年、学部は設置完成年度を迎えることになる。有能な理系人材の輩出へ向け、今まさに皆が一丸となって活動している。
2002年(平成14)4月1日 | 杉浦 昌弘 |
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2005年(平成17)4月1日 | 森山 昭彦 |
2007年(平成19)4月1日 | 田島 譲二 |
2011年(平成23)4月1日 | 桑江 彰夫 |
2013年(平成25)4月1日 | 能登原 盛弘 |
2015年(平成27)4月1日 | 杉谷 光司 |
2017年(平成29)4月1日 | 湯川 泰 |