学部・研究科・附属病院の歴史
学部・研究科・附属病院の歴史
私は、1981年に入学した、今でいう中期日程の第一期生にあたる。国公立大学とは別日程で二次試験を実施したため、当時の競争率は信じられないほど高く、「足切り」というまだ聞きなれない用語に、ある種の緊張感を覚えたものである。今とは違い、大学の情報を得る手段は紙ベースでしかなく、志望校を決めるためには受験関連雑誌や各々の大学の「赤本」などに頼るほかはなかった。今では各大学のホームページがかなり充実しており、他にも種々の口コミサイトがあるなど、情報量は比較にならないほど多い。その一方で、受験校の絞り込みには高等学校における偏差値をもちいた輪切りの進路指導が多く、各大学の特色がどこまで考慮されているのかはわからない。総合大学なのか単科大学なのか、医学部が併設されているのかどうかなどについては考えるのであろうが、大学の施設については軽視されているようにも思える。その代表的なものが薬草園ではないだろうか。自身のことを思い返すと、薬学部に薬草園はあって当然のものと思っていたし、できれば充実した薬草園をもつ大学に進学したいと、何の根拠もなく考えていたものだったのだが。
われわれの頃は、山の畑で1年半の教養課程を過ごし、2年次の後期から田辺通での専門課程へと学びの拠点を移すカリキュラムであった。田辺通での生活は、薬学部単独のキャンパスならではの雰囲気があり、実習室から漂う薬品のにおいなどが今も記憶に残る。ほとんど空きコマがないのは今も昔も同じではあるが、適度に講義や実習を抜け出し、薬草園のベンチで一人読書に耽ったこともある。4年次には荻原先生が主宰する生薬学教室に配属となり、薬草園に入り浸る時間がさらに増えた。薬草園の管理を行っていた加藤さんにも可愛がられ、山桜桃梅や柿、温室のバナナを頂いたりしたものである。また、春には花見を、夏には蚊取り線香を手にもちながらのBBQと生薬学教室ならではの楽しみ方をしたのも薬草園であったし、研究室の卒業写真と言えば薬草園が定番であった。教員となった後も、大学院生や学生とキャッチボールの傍ら、研究室ではできない話をする場として薬草園は特別な場所であった。さらに、水上先生が生薬学分野として主宰してからは、オープンキャンパスや市民公開講座など、薬草園を上手に活用することを学べたのもよい思い出である。
いろいろな思い出が薬草園にはあるが、最も鮮明に記憶しているのは、私自身の今に通じる進路について荻原先生と話していたときのことである。雨上がりの蒸し暑い中、眩いばかりの陽射しをふと見上げたとき、朽ちかけた木の上で玉虫が光り輝いていたのには二人ともさすがに言葉もなく、ただ驚くだけであった。
思い返せば、名市大での日常にはいつも薬草園があり、今も大学を、また学生を見守る存在であると思う。この薬草園は、こぢんまりとはしているものの、十分な機能を果たすものとして、近隣の他大学に勤めるものとしてとてもうらやましく思っている。
名城大学 薬学部 教授
能勢 充彦(昭和60年卒)