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人文社会学部・人間文化研究科

草創期学部長の回顧

人文社会学部創設の頃

初代学部長 
名古屋市立大学名誉教授
城戸 毅

初代学部長 
名古屋市立大学名誉教授

城戸 毅

 私は初代学部長として1996年から2000年まで在職し、市大及び名古屋市の関係者に大変お世話になった。もともと私はそれまで名古屋の大学に在職したことはなく、名古屋に住んだこともなかった。私の両親の出自もこの地方ではない。はなしが起ったのは私が前任の大学で定年退職を迎える1年余り前の1993年秋から初冬の頃だったと思う。私は名古屋に住んだことはなかったが、全く馴染みがない訳ではなかった。戦中戦後を通じて3年半ほど現在の美浜町野間に家族と共に疎開していたことがあり、同じころ父は稲沢の毛織物会社に在職していた。その頃年末の買物のために父に連れられて名古屋の街を二、三度訪ねたこともある。野間を戦後も何度か再訪したこともあったし、成人してから学会などの機会に名古屋を訪れたこともあった。疎開地には名古屋からの疎開学童が少なからず、彼らや土地の子どもたちとの交友を通じて私は名古屋弁に親しんだこともあり、それは懐かしい子ども時代の思い出の一部となっている。だから私は名古屋で勤務するという話を格別の抵抗もなく受け入れることが出来た。私に当初求められたのは新学部設立準備委員会委員長の役割だった。私の名市大についての予備知識はほとんどゼロで、理系の大学らしいという漠然とした印象しかなかった。しかしはなしは順調に進み、当時の山本正康教養部長、伊東信行学長、粟野泰次新学部設立準備室長、佐合広利名古屋市職員らが次々に私の研究室や自宅を訪れ、声をかけて行かれた。その中には当時の教養部教員だった土屋勝彦助教授や別所良美助教授の姿もあった。土屋先生らは私と共に何人かの私の同僚も市大に招きたい様子だったが、結局私と行を共にすることになったのはそれ以前からやはり名古屋行のはなしのあった古代朝鮮史の泰斗武田幸男教授だけに止まった。
 年が明けて夏も近づいたころ、いよいよ設立準備委員会が発足することになり、私も月に一度開かれる委員会に出席することになった。もともと名市大に新しい学部を創設することに市の方針が定まったのは、当時の文部省が「一般教育の大綱化」と称された方針を打ち出し、大学入学者が最初の2年間に履修すべき一般教養科目に関する規制を緩めたことに端を発していた。文部省がこの方針を打ち出すと、全国の大学はそれまで燻っていた一般教養の担当部局と専門学部の間の摩擦を解消するために教養部の廃止と大学を構成する諸学部の再編に一斉に動き始めていた。また女子の4年制大学への進学率が上がり、女子短大の将来についての不安も広がっていた。市はこれらの問題に対処するために市立の高等教育機関の将来に関する市長の諮問に答える審議会を設置し、松尾名古屋大学学長らの委員に諮問していたが、この諮問に対する答申が出て、市は市大教養部と市立の二つの女子短大、市立保育短期大学と市立女子短期大学を統合して、理工系と文系の二つの学部を設立するという方針を打ち出していたのである。私に求められたのはこの後者の学部の設立に関わることだった。その後約13年続くことになる私の名古屋への新幹線通勤が始まったのは多分1994年の5月か6月のことだったと記憶する。当初は市役所の担当者に極めて丁重に扱われ、また委員会の運営についても毎度筋書きと脚本が用意されていて、私はそれに従ってセリフを読むだけで、ほとんど議論らしい議論はなかった。時たま特に閉学となる二つの女子短大の関係者からこれまでの女子短大の教育に注意を払って、それを継承して欲しいという注文が出ることがあったが、私の役割はこうした注文に耳を傾けてそれらを生かすことを約束するに止まった。こうした要請は実質的には短大に置かれている授業科目と担当教員の定員を維持して欲しいということを意味しており、当事者にとっては切実な問題だったのである。特に保育短大の同窓会「さわらび」は熱心で、確か最初の準備委員会の終了後役員の皆さんが私に面会を求め、私は奥村さんと言われたと記憶する会長さんを始め役員の皆さんにお目にかかって互いに挨拶を交わしたことが今でも記憶に残っている。結果として保育短大にあった保育士養成課程は新学部に継承された。この時期を通じて私は名古屋市の官僚機構の堅固さと確実さ、職員の有能さを強く印象付けられ、その後の市職員に対する信頼の基礎が培われた。この時期の私にとっての大きな出来事は1995年1月17日の阪神淡路大震災だった。当日は新学部設立準備委員会の開催予定日に当っており、朝目覚めて地震の発生と近畿・東海の交通機関の途絶を知って私は途方に暮れた。しかし兎に角東京駅まで行ってみようと、9時半ごろ東京駅に出向いてみたところ、名古屋までの「こだま」だけが辛うじて運行していることが分り、そこから市役所に電話を入れて、委員会には出席できる見込みだが、遅れるかもしれないと通知して名古屋に向かい、どうにか委員会に顔を出すことが出来た。
 1995年4月私は前任の大学を退職すると同時に名市大教養部に採用され、教養部の最後の1年と私の名市大での最初の1年を西洋史担当の教養部教授として過ごすことになった。この当時の同僚の皆さん、特に理系の方々は、教養部教員の互助親睦組織である親和会をその後のシステム自然科学研究科や生命理学部の教員として継承されており、その定例懇親会が毎年3月に開催され、私も案内を頂戴しているので、そこに出席してお世話になった山本元教養部長をはじめ多くの方々にお目にかかる機会がある。その際についでに人文社会学部棟にも立ち寄ってたまたま出会った元同僚諸氏と旧交を温める機会ともしている。
 それから1年後いよいよ新学部が発足する日が近づいた。学部の名称については準備委員会でも議論したと思うが、三つの大学の学内手続も必要で、準備委員会だけで決めることは出来なかった。しかし幸い私が提案した人文社会学部という名称がどこでも受け入れられて、他の提案もない訳ではなかったが、これに落ち着いた。この名称は私の前任大学でたまたま大学院研究科の再編と名称の変更があり、そこで提案されていた新名称に因んだものだった。学部長と評議員の選出も必要で、これは新学部を構成することになる教員の皆さんが集まって投票して下さり、学部長には私が選出された。評議員は学部を構成する三つの学科のうち私が属する学科を除く他の二学科から選出され、これがその後も踏襲されていると思う。選挙の際私は退席していたのではないかと思うが、手続など詳細については記憶がはっきりしない。学部長の選出後教授会の予行演習がプレ教授会という名で開催された。当初教員だけで私は多少の不安を抱えて開会したが、開会後間もなく会議室となっていた教室の最後部出入口付近に粟野準備室長が座っているのが見えて安堵感を覚えたものだった。学部の新設に当っては山の畑校地に建物が二つ建つことになっており、経済学部などと共用の教養教育棟が1996年の新学部発足までにまず完成した。教授会などの会議は当面この建物の大教室で行われていた。教授会などの運営は私は未経験だったが、前任校での運営は見ていたので、それを見よう見まねで踏襲した。一つ困ったのは前任校では慣例だった事務長の席を学部長席の隣に置くことを加藤久美初代事務長が固辞し、私を座長席に独りおいて学部長席からはかなり離れた位置にしか着席しなかったことだった。これでは会議の運営に際して事務長の補佐や助言を得ることが出来ないので、私は繰り返し隣に座ってくれるように懇願し、ようやく2代目の森明事務長の頃になって事務長席は学部長席から2~3席離れた位置に落ち着いた。もっと早くに私から教授会構成員に諮って同意を得るべきだったのかもしれないが、その当時私は事務長席を定めるのは学部長の専権事項と心得ていて教授会に諮る必要には全く思いいたらなかった。学部棟が完成したのは初年度入学者の専門教育が始まった1998年度の初めだったと記憶する。この時全教員の研究室も定まり、学部を構成する予定の教養部と短大に所属していた教員がそれぞれの研究室に入居した。新学部の発足に先立って事務当局から私に要請のあったもう一つの重要案件があった。それは新学部の発足を近隣の進学校に周知し、進学予定の高校生の市大新学部への入学を促す募集活動をすることだった。すでに大学進学年齢人口は減少に転じており、このころから大学の入学者確保は各大学の焦眉の問題になって行く。私は2年に亘り準備室長や事務長の案内を受けて年末から年初にかけていくつかの近隣の高校を回り、大教室に希望者を集めて新学部の紹介と勧誘を行ったが、どの高校に行ったかはほとんど記憶がない。桑名と豊橋近傍に行ったことだけは覚えている。この募集活動が志願者数や入学者数にどう影響したかの分析はこれまで聞いていない。
 学部発足以降については特に印象に残っているのは教授会の運営と設置者である市当局との関わりである。教授会の運営では発足間もない学部では何事につけ議論が多く、教授会が長引く傾向があったことが特筆される。学内では人文社会学部の教授会は長引く、という評判があると聞いたことがあるが、極端に長引くことは稀だった。ただ一度学部発足後4年目のことだったと思うが、山の畑校地にある三つの部局の事務室を一室にまとめるという話が事務側から起ったことがあり、学部執行部はその方が学部間の関係も密接になり、経済的ではないかと考えて内諾を与えたところ、教授会で統合事務室の設置場所や空室となる現事務室の利用などが話題に上った時に、事前に事務室統合について教授会が協議を受けなかったとして激しい反発が生じ、執行部は自己批判を迫られ、長い休憩を挟んで午後9時半まで会議が長引いたことがあった。これは極端な例でこういうことは稀だったし、この事件がその後の学部の運営に影響を残したこともなかった。山の畑校地の事務室統合問題はこの紛糾が原因かどうかは不明だが、その後沙汰止みとなった。しかしその後学部創立20周年記念行事に関連して送られてきた郵便物には問い合わせ先として「市立大学山の畑事務室」とあるので、その後事務室の統合は実現したように見える。学部長も教授会構成員も顔触れが変わり、事前の教授会での協議も慎重に行われたのだろう。もう一つの市当局とのかかわりではまず学部発足時に学部長辞令の伝達があった。市長公舎で市長自身の手で辞令交付が行われたのである。いわば親授式である。この時も少し緊張したが、それよりも私にとって初体験だったのは毎年予算編成期に市の上層部の居並ぶ中で行われた各部局長たとえば私による口頭での予算要求の目玉事項の陳述(ヒアリング)だった。最初はどのようなことがどの程度に行われるのか分らなかったので緊張したが、実際には実に簡単に済まされた。当局側は事前に当該部局がどのような予算要求を出しているのかは把握しているので、ヒアリングで行われるのは当該部局の責任者、例えば私が述べる要求事項を控えの書面にある予算要求と照合して確認するだけのことだったのだろう。また市の上層部としても大勢の下僚が次々と陳述する要求事項をいちいち吟味している時間はなかっただろうからこうした処理はいわば当然と思われる。現在でもこうした手続きあるいは儀式は続けられているのだろうか。総じて私は大学設置者である市側との接触を通じて公立大学という形態の大学は国立大学などと比べると設置者との距離感がなく、かかわりが密接なので設置者の統制・支配を受けやすいという印象を持った。
 これに比べると、文部省大学設置・学校法人審議会との交渉はもっと実質的だった。学部の設置手続きは私が赴任する前から進んでいたので、私は途中から参加したに過ぎなかったが、任期も後半に入って大学院の開設が日程に上り、これに関連して文部省側と折衝する機会が増えた。詳細はもうほとんど記憶にないが、本省側の若い事務官と書類をまえにおいて細部にわたってやり取りし、その都度宿題を頂いて帰ったものだった。幸い大きな障害にぶつかることはなく、学部の開設も大学院の開設も順調に進んだのは事務当局の尽力と教授会構成員の協力のおかげと思っている。
 任期も終わりに近づいたころ起ってきた案件にオーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学との大学間交流協定の締結問題があった。この大学と名市大との間にはこれに先立ってすでに交流があったが、人文社会学部もこれに参入することになったのである。こうして1999年春のことだったと記憶するが、私はシドニーに赴いてこの大学の人文系の学部と交流協定を締結して帰国した。英米文学の新井透助教授が同行してくれた。この時結ばれた交流協定を人文社会学部はその後どのように運用しているのだろうか。
 以下は学部長としての私の職務とはかかわりのないことだが、一介の大学教員として、あるいは教養ある市民として、市大に在職する間に学んだことに言及しておこう。一つは授業に関連したことだが、閉口したのは「比較文化論」と題された授業だった。これは私がそれまで経験したことがなかった授業科目で、講義案についてよい考えが浮かばなかったので、私の専門分野ではなかったが、言語学者である鈴木孝夫氏が発表されてきた、日本語を他言語と比較してその特異性を論じた考察が面白く思われたので、それをもっぱら題材として学生諸君に解説して聞かせた。もう一つはコンピュータの扱いを学んだことである。私はそれまでにすでにワード・プロセサーや英文タイプライターの操作には習熟していたが、コンピュータの操作や術語については全く無知で、前任校の任期末にはすでに不便を感じていた。名市大に籍を移して間もなく、1997年度初めのころだったと思うがすべての教員に大学からコンピュータが支給された。これを機に私もコンピュータに向き合うこととなり、同時にメイル・アドレスも与えられていたので早速電子メイル(email)の送信を始めた。といっても最初はまず機械の操作方法が分らず、あちこちに尋ね歩いて次第に操作を学ぶことになったが、この間一番お世話になったのがこの分野で学部の第一人者だった矢野均助教授だった。この意味で矢野先生は名市大での私の第一の恩師といえる。もうあれから随分年月が経ってしまったが、改めてこの際矢野先生への私の謝意を表しておきたい。こうしてこの年に私は私のIT元年を閲することになったのである。
 私は学部長の任期4年を終えたのち後事を福吉勝男教授と教授会を構成する先生方に託して在職5年で市大を去った。この間学問的にはあまり進歩がなかったが、コンピュータの操作を学んだことはその後の私の生活を豊かにし、キャリーアを延伸することに役立った。振り返ればこの5年間は私の人生の一こまを飾る楽しい5年間だったと思う。