学部・研究科・附属病院の歴史

学部・研究科・附属病院の歴史

HOME > 学部・研究科・附属病院の歴史 > 研究科・附属病院の歴史 > 人文社会学部・人間文化研究科 > 人文社会学部・人間文化研究科の歴史

人文社会学部・人間文化研究科

人文社会学部・人間文化研究科の歴史

人文社会学部の25年と教育理念としてのESD

1. 名古屋市立大学・・・そのプロローグ

丹羽 孝
名古屋市立大学名誉教授
丹羽 孝

丹羽 孝
名古屋市立大学名誉教授
丹羽 孝

 名古屋市立大学が「名古屋市立大学」として発足したのは,1950(昭和25年)4月のことであ る(表1参照)。これは終戦に伴う教育制度改革の下で、新制大学として認可され、最初の入学式が挙行された年なのである。その内容は医学部と薬学部および附属高等厚生女学校だった。この時のキャンパスは医学部が田辺通りと瑞穂通に、薬学部が鳴海町黒石地区に置かれていた。
 次に、教養部について述べる。名古屋市立大学の教養部は名古屋市立大学開校時にあっては、薬学部の中に教養科が置かれ、両学部の教養教育を担当した。その後の1955年、医学部に医学進学 課程が設置されると同時に、教養科が教養部として独立した。教員数は24名規模だった。その後 大学の定員増等の変化に対応し、教員数は最終的には41名規模となっていた。そして1996年、人文社会学部・芸術工学部の発足に併せて自然科学研究センターへと移行した。
 名古屋市立の短期大学についていえば、名古屋女子短期大学は1950年4月に開校し、同年12 月1日、名称を名古屋市立女子短期大学へと変更した。なお同校は、1947年6月に開校された名古屋市立女子専門学校をルーツとしている。ちなみに同じ年、愛知県は現在の県立大学の母体となった愛知県立女子専門学校を開校している。女子短期大学の最初のキャンパスは、旧名古屋市立第一高等女学校にある名古屋市菊里町に置かれていた。同短大が現在の芸術工学部のある萱場地区へ移転したのは、1970年9月のことである。
 名古屋市立保育短大の開校は、女子短大に遅れること3年、1953年4月のことである。場所は現在名古屋市立白金保育園のある名古屋市白金町で、ここは元々名古屋市中央社会館が所在していたところで、そこを間借りする形で発足したのだった。そして保育短大が尾張旭キャンパス(当時は東春日井郡旭町)に移転したのは、1966年のことである。なお、保育短大のルーツについて付言すれば、1946年4月に名古屋市が設置した名古屋市保母養成所(初代所長 青山大作)であり、戦後では公立の保育者養成機関の嚆矢となった。詳細については〈表-1〉を参照されたい。また、市立大学については『名古屋市立大学50年の歩み』(名古屋市立大学、2001)、女子短期大学については『名古屋市立女子短期大学50年史』(市立女子短期大学、1996)、保育短大については『名古屋市立保育短期大学50年史』(市立保育短期大学、1996)および『名古屋教育史Ⅱ、Ⅲ』(名 古屋市教育委員会、2014,20015)を参照されたい。

表-1 名古屋市立大学略年表(市立大学発足以前)

和暦 西暦 事項
明治17年 1884 名古屋薬学校、名古屋製薬株式会社内に創設(蔵田信忠校長)
明治23年 1890 名古屋薬学校は愛知薬学校と改称し中区西新町に移転
昭和6年 1931 愛知高等薬学校開校(鳴海町黒石)
昭和11年 1936 愛知高等薬学校が名古屋薬学専門学校と改称
昭和18年 1943 名古屋市立女子高等医学専門学校開設、名古屋市民病院を附属医院とする
昭和19年 1944 名古屋市立女子高等医学専門学校が名古屋市立女子医学専門学校と改称
昭和21年 1946 名古屋薬学専門学校が名古屋市に移管
名古屋市保母養成所設置
昭和22年 1947 名古屋市立女子医学専門学校を名古屋女子医科大学へ改革
昭和24年 1949 名古屋薬学専門学校が名古屋薬科大学として再発足(学長 内藤多喜夫)
昭和25年 1950 名古屋市立大学が医学部(後藤基幸)、薬学部(内藤多喜夫)で発足

 

2. 市立三大学統合問題の背景

 戦後日本の大学政策史において、大学としての質を担保する為の政策の嚆矢が、1956年に制定された『大学設置基準』だった。そしてこの設置基準施行後の1966年、ベビーブーム第1世代の入学期を契機として、日本の高等教育はいわゆる「大学大衆化」時代に入ったのである。文部省はこの問題に対応すべく一般教育課程運営の弾力化(1970)、単位互換制度の導入(1972)を行った。またそれと併行して新構想大学(筑波大学)の設置、学部以外の研究組織の設置(1973)、大学院設置基準制定(1974)、短期大学設置基準制定(1975)等多くの高等教育政策を進めていった。
 こうした高等教育改革の政策に一つの大きな転換をもたらしたのが、1991年の「大学設置基準の改定」だった。一般的には設置基準の大綱化というキーワードで紹介されたこの改革は、日本の高等教育制度にとても大きな影響を与えることになった。
 この改正が私たちに影響を及ぼしたことの第一は、短期大学制度の見直しである。大学の大学院化が急速に進められていく趨勢の中で、既存の4年制大学は大学院の設置を含む大学の基本構造の変革を迫られていたし、短期大学は4年制大学への展開を迫られることになった。市立三大学の統合問題も、実はこうした日本の高等教育政策の流れの中で生起した大学改革の一つの事例であった。

三大学統合に関する準備過程年表

昭和59年 1984 2月 市立三大学将来構想検討委員会設置
昭和63年 1988 6月 保育短大が「本学の将来計画について」を策定し、文学部案を検討
昭和64年 1989 5月 女子短大は生活文化大学案を検討
平成2年 1990 10月 「名古屋市における短期大学の将来方向に関する調査報告書」(日本構想開発研究所)提出
    12月 教養部から教養部を解体し基礎学部または国際文化学部とする構想が提案される
平成3年 1991 2月 保育短大が「21世紀に向けての名古屋市高等教育充実構想」(将来構想委員会第2次試案を作成〔生涯学部構想〕)
    4月 両短大の統合4大化構想について、名古屋市が非公式に了解する。総務局に大学設立準備室を設置
    5月 両短大代表による「4大化協議会」設置
    11月 「名古屋市立新構想大学検討調査中間報告書」(日本開発構想研究所)
平成4年 1992 6月 「市立大学の将来構想に関する懇談会」(座長 飯島宗一)発足
平成5年 1993 4月 「市立大学の将来構想に関する提言」提出
    7月 「統合/四年生化準備検討委員会」(総務局主催)開催
    9月 西尾市長、三大学統合計画を正式に表明。自然科学研究センター構想(教養部)提出
    11月 「名古屋市立大学新構想学部案について」(日本開発構想研究所)提出:人間社会学部を含む2学科案示唆
    12月 2学部4学科案で検討する構想について、総務局長が了承する
平成6年 1994 1月 芸術工学部、人文社会学部案で4大化協議会が合意
    6月 「市立三大学の統合に関する整備委員会」発足

 

3. 市立三大学の統合過程概要

(1)概観

 市立三大学統合問題の取り組みは、1979(昭和54)年頃から始まった。その具体的な内容は<表2>を参照していただきたい。統合化問題は二つの短期大学(名古屋市立女子短期大学と名古屋市立保育短期大学)の四年制大学化の模索から始まっていた。両短大の四大化問題への取り組みは1977年頃から具体的になっていた。そして1979年4月になって、両短大にそれぞれ「学内将来構想検討委員会」が設置されることで、取り組みは一層具体的になっていった。  
 また市立大学教養部(当時は山本正康教養部長)にあっても、やはり1977年段階から改革論議は始まっていた。1988年には教養部将来構想検討委員会名で、「三学部構想案」が作成されたりしていた。そしてその後、教養部の大学改革案は1991年段階で「国際文化学科」案へ焦点化しようとする動きが見られた。このように両短大および教養部でそれぞれの改革 論議が進められていく過程にあって、市立三大学を視野に入れた本格的な改革論議の始まりには、1982年に開催された「名古屋市高等教育懇話会」(主要メンバーは総務局長、市立女子短期大学長、市立保育短期大学長、市立大学教養部長および三大学事務長等)が大きな契機となった。 この懇話会の発足当時の中心的課題は、両短期大学の統合問題であったが、この教育懇話会は広い視野に立って市立大学制度そのものの見直しの必要性を指摘していたのが特徴的な内容だった。そして名古屋市はこの提言を受けて1984年に「市立三大学将来構想委員会」を設置した。この時点になって、市立大学制度全体の見直しの必要性への認識が、名古屋市当局を中心に育ちつつあった。 しかし、実際にはしばらくの間は両短大の統合・四大化問題について議論が進められていった。そして1990年にこの流れに沿って、名古屋市当局によって選定された、大学改革のシンクタンクの一つである日本開発構想研究所による調査報告(両短大の統合・四大化実現の可能性に関する調査)が提出された。その結果は「おおむね可」という内容であり、これを受けて名古屋市総務局は、非公式ではあったが両短大の統合四大化に了解を出した。そしてそれを受けて総務局内に「大学設立準備室」が設置されたのだった。
 他方、1992年には「大学の将来構想に関する懇談会」(6月)が飯島宗一名大学長を座長として発足し、翌年4月に「大学の将来構想に関する提言」が提出された。その提言では両短大の統合四大化ではなく、もっと広い視野に立って市立大学の整備を視野に入れた改革方向を示していた。提言は、具体的には市立三大学の統合および市立大学の総合大学への整備を骨子としていた。この提言の影響は大きく、市立三大学の整備の方向について決定的な影響を与えたということができる。そして、以後は両短大および教養部を母体とする市立大学の新学部設立への取り組みが、急速に具体化していくことになった。

(2)第一段階

以上概観した市立三大学の統合、新学部設立の過程を整理すれば、大きく二つの時期に区分することができる。第一の段階は保育短期大学と女子短期大学を統合して、四大化するという計画の進行段階である。時期的には1977年から1991年までである。 第二段階は、既存の名市大教養部の改組を含めて、両短大を市大の新学部へと統合再編成するという計画の進行過程である。時期的には1991年から,新学部が誕生した1996年までのことである。
 第一段階の内容は、次のような如くである。 1977年段階で、市立女子短大と市立保育短大の教授会はそれぞれの立場からではあるが、日本の高等教育の発展方向を検討する中で、短期大学の四年制大学への移行への趨勢は必然的な事項であるとの認識に立って、積極的な四年制大学化を進めていくための努力がなされた。
 1979年には両短大それぞれに「将来構想委員会」が設置され、精力的に資料収集や構想案作成を行っていった。しかし、なにぶん市立大学であるという基本的条件があるわけで、市当局の意向がどういうものであるかが、将来の方向を左右する決定的な要因の一つとなっていた。尚この時点では保育短大は四年生の保育大学構想を、女子短大では名古屋市立女子大学構想を準備していた。

(3)大学統合準備室の設置

 こうしたジレンマを払拭する契機となったのが、やはり名古屋市当局の対応だった。名古屋市は1990年に、総務局内に「総務局・大学設立準備室」を設置し、本格的に大学改革政策への取り組みの意思表示を行った。なおこの準備室の創設時メンバーは、粟野泰次室長(後に瑞穂区長)、佐合広利主幹(後に名古屋市教育長)、溝口祐二主査、河村隆司主査および木村美保主事の5名だった。名古屋市としても十分配慮しての人選であったのだと、今思っている。なお準備室にはその後業務拡大に伴い豊島行広主査、諸岡寛久、草分範夫、越智恒至、鈴木芳宏、中山晶恵主事が加わり、最終的には10名となっていた。この統合準備室の設置は、両短大の4大化問題に対して行政が具体的な対応を示したという点で、画期的であった。また、この統合準備室が両短大の統合化推進担当部局として、実務的にも資料収集、構想案作成過程および申請書類作成過程においてかけがえのない役割を果たしてくださったことに、あらためて感謝したい。
 統合準備室はその後、先にふれた懇話会の提言を受けた後、3大学統合準備室として、新学部発足までの事務局としての機能も果たしていった。なお、この統合準備室に関して,特に強調しておきたいことが一つある。それはこの統合準備室が両短大および市大教養部のスタッフに対するスタンスが、極めて民主的であったということである。この時期、全国的にも多くの大学や短大が改組または四大化を進めていたが、その多くがトップダウン方式であったのに比して、名古屋市の統合準備室(および市当局)の柔軟で民主的な対応は特筆に値するものであった。この点について筆者はこの方式を「名古屋市方式」と命名し、その利点を広く訴えているので、参考にしていただければと思っている(参考:「私たちの大學改革とカリキュ ラム」、『大学と教育』1996.5、東海高等教育研究所)。

(4)第二段階

 第二段階の始まりは、なんといっても「将来構想に関する懇談会」の開催だった。広く市民の声を聞いて、市立大学の改革方向を構想していくという趣旨のもとで開催されたこの懇談会は,その報告書の中で従来からの課題となっていた両短大の統合四大化ではなく、市立三大学の統合整備を提言した。名古屋市はこの提言を尊重して、1993年7月に「統合四年制化準備検討委員会」を設置した。それに続いて9月には当時の西尾武善市長が、三大学の統合を正式に表明し、名古屋市立三大学の改革方向は確定したのだった。
 それ以後、同年11月には教養部から自然科学研究センター構想の提案、日本開発構想研究所の調査報告等を踏まえて、人文社会学部案、芸術工学部案の二学部案(各二学科で計四学科構想)および自然科学研究センター構想が総務局長水準で了解された。それを踏まえて1994年1月、「四大化協議会」(三大学と市当局との意見調整機関で1991年に設置)が開催され、二学部および自然科学研究センター案が了解された。なお、この「四大化協議会」は、新学部発足時まで継続して存続した。そしてこの四大化協議会の設置を受けて、名古屋市には「市立三大学の統合に関する整備委員会」(委員長は市長、メンバーは三大学学長および総務局長等)が設置されて、本格的な新学部設置事業が開始されたのだった。
 参考までに整備委員会設置以後、新学部開設までのあゆみを整理すれば、<表-3>の如くである。

(5)新学部準備過程

 市立大学の新学部設置申請作業のために準備された、私たちの運営組織は<図-1>の如くだった。 以下、この組織の行った具体的な作業内容等について述べる。
 この組織図の中で、各学部(新学部)に設置されたのが設立準備委員会である。人文社会学部については「人文社会学部設立準備委員会」(城戸毅委員長、初代学部長)、芸術工学部については「芸術工学部設立準備委員会」(柳沢忠委員長、初代学部長)が設置された。両委員会は新学部発足までプレ教授会としての機能を担保し、新学部に関わる様々な内容を審議し決定していった。なお両委員会に参加したメンバーは、事前の構想案で定められた新学部構成員候補者たちだった。  
 さらに両設立準備委員会の下には、<図-1>に示した如く、新学部発足に必要な事項に対応した小委員会「専門委員会」が設置され、具体的な内容の検討を行っていった。
 そして学部水準の設立準備委員会の上位機関として,先にふれた「整備委員会」が最終意思決定機関としての機能を担保していた

(6)申請書類の作成

 新学部の設置に関わって、文部省への設置認可に関する申請書類作成は内容的にも、事務量的にもとても大きな仕事だった。特に内容についていえば、学部名称の決定過程は困難を極めた。芸術工学部についていえば学部名称は最初「デザイン学部」を構想していたが、当時は大学設置基準が厳しく運用されていて、前例のない学部名は認められないということで、北九州市立大学等に前例のある「芸術工学部」という名称に決定した。しかし人文社会学部については教員養成課程を設置するというこちらの事情もあり、国際文化学系学科、社会学系学科を含みこんでの学部名称の決定はとても難しかった。結果としては保育短大を中心とする保育者・教員養成系学科の名称としては東洋英和女学院大学を先例とすることで何とか収まった。学部名称についてはこれら三学科を統合できる名称をということで、色々議論した結果、最もオーソドックスな「人文社会学部」へ収束した。もちろんこの過程でも開発構想研究所と相談しながら進めていった仕事であったが、おおむねいけそうという回答を得たときは、本当にほっとした思いだった。  
 次の問題は、教員の配置問題だった。手持ちの人材資源は保育短大の教員および女子短大の教員、および教養部の教員だった。この先生方については各学部の教育課程案をにらみながら、できるだけ適切な配置となるように、また各先生方の希望を最大限受け入れるという方向で検討され、結果としてはスタート時の陣容となった(第1号 パンフレット参照)。
 問題となったのは教養部の先生方の内、自然科学および体育学系の先生方の配置をどうするかであった。これについて幾度となく話し合いが行われたが、結果としてそれらの先生方を中心に「自然科学教育センター」を構成し、全学の教養教育を担当することとなった。そして将来的には、独立した自然科学系の学部または大学院を構想するということに落ち着いた。この時の自然科学教育センターへの所属を承諾された先生方のご厚意は、人文社会学部の誕生を円滑に進めることのできた、隠れた大きな要因の一つだった。

表-3 新学部設置までのあゆみ

和暦 西暦 内容
平成6年 1994 6月 設立準備体制システムについて
      学部・学科・入学定員について
      取得資格について検討
    7月 学部・学科の理念の検討
      3年次編入学制度について検討
    8月 教養教育の考え方について
      入学試験について
    9月 学部の教育理念および教育課程の特色について検討開始
      専門教育課程について検討開始
      学科制か講座制かについて協議
      国際文化学科の留学生/帰国子女入試の内容決定
    10月 教養教育の理念および教育課程について合意成立
    11月 申請書類原案の検討
      教員配置・教員定数・採用計画の検討
      教員採用にかかる選考規定作成
    12月 申請学部名を人文社会学部とすることに決定
平成7年 1995 1月 自己点検・評価制度について検討
      助手問題について協議
      保母資格以外の取得資格について検討
    2月 非常勤講師採用、集中講義科目の検討、外国人教員および客員教員に関して財政当局と協議(*5名の外国人教員枠を決定)
      新学部担当教員候補者名簿を承認
      学士号に付記する専攻分野を決定
    3月 教育課程に関する修正案の報告
      教員選考(非常勤講師、外国人教員について)追加人事承認
      研究費区分についての検討過程報告
      施設設備計画についての現状報告
    4月 申請書類最終版について報告
      入学試験の時間割、実施要綱等について報告
      進学説明会対応について報告
      教員選考(非常勤講師、外国人教員)について追加承認
    5月 入学試験実施要綱、選抜実施要綱要旨および集計員について
      海外派遣、客員教授の招聘制度について協議
      新学部担当教員にかかる個人調書最終校正
      申請と開学までのスケジュール確認
    6月 新学部入学者選抜実施要綱の要旨について報告され、確認(市立大学入試委員会に報告)
      人文社会学部棟に関する設計内容の報告および検討
      図書等に関する整備状況報告
    7月 設置構想委員化の意見について報告を受ける
    8月 人文社会学部共同研究施設に関する予算請求案の検討
      進学関連予算案について説明される
      入学試験における健康診断の判断基準について説明を受ける
    9月 嘱託員の要求について検討(助手問題)
      保母養成課程の申請を行った旨報告
      教育方法の特色について追加説明資料報告と承認
      市立大学長(伊東伸行学長)、学生部長(榊原仁作教授)および図書館長に選考規定検討状況を報告
    10月 学部運営に関する諸規定の検討
      設置申請にかかる補正書類の説明報告
      授業科目に関するシラバス、教員のプロフィール等について
      平成8年度帰国子女・私費留学生の入試に関する計画報告
    11月 平成8年度、学事日程報告
      シラバス、プロフィールの原稿依頼
      両短大教員の研究室移転方法と内容が確定
      10月19日に開催された文部省の実地審査結果が報告される
      21日に、第1回教員予定者懇談会開催
    12月 研究費配分(実験、非実験区分)、および執行方法確定
      教授会規程検討
      学部運営の基本的な考え方および組織のあり方について検討
      専科生、科目等履修生のあり方について検討
      平成9年度、センター試験科目等を決定
平成8年 1996 1月 学部長選考規定の検討
      履修要綱の原案確定
      動物実験委員会規定の検討
      在外研究員制度、国内研究員制度等について意見交換
      入学式および新入生オリエンテーションについて協議

図-1 新学部準備のための運営組織

新学部準備のための運営組織

4. 教育課程の編成

 新しい学部の発足に際して最も基本的で重要な事項の一つは、学部設立の理念と、それを具体化した教育課程の内容である。学部設立理念は設置申請書の必須要件の一つであり、新学部設立の必要性と発展性およびオリジナリテイをどう書くかは、とても苦労した作業だった。何度も原案を作成し、幾多の会議を経て、ようやく申請書類原案ができた時は、とてもほっとしたものだった。以下、参考までに申請書類に掲げた「人文社会学部の設置を必要とする理由」を収録しておく。今あらためて目を通してみると、そこからは関係者の苦労の跡が感じられる、今では貴重な資料である。  
 なお新学部の教育理念等については,別項で紹介しているので、そちらを参照していただきたい。  
 教育課程については、この時点ではやはり大学設置基準の運用が厳しくチェックされており、各学科はそれぞれが基準とすべき設置基準(専任教員数、開設科目名等)があったので、その基準に則して現有人員を配置し構成した。不足部分については新規に採用し、設置基準を充足するための努力をした。しかもこの基準は4年間を見通したものでなければならなかったので、2~4年後に退官される教員の補充人事も具体化しなければならず、特に苦労した思い出が残っている。  
 教養教育課程をどう構想するかも、大きな課題の一つだった。この課題については、当時優れた教養的教育の改革事例として高く評価されていた中央大学、東京大学、慶應義塾大学、立教大学および北海道大学の事例を入手し、検討することから始まった。これに関しても当時私は全国の代表的な大学の教養教育課程資料の殆どを入手し、検討したいと考え準備室に依頼した。準備室はそれに応えて、全国から50以上の学生便覧(教養教育課程)を入手してくださった。この資料は本当にありがたかった。  
 こうした基礎研究を踏まえて、本学の教養教育を構想する際に課題としたことの一つは理念だった。そして次にはその理念を具体化する教育課程をどのように構想するかという問題だった。そしてその結果確認された原則は、次の5つであった。  
 第一は、各学科(学部)単位で、4年間を通じて個別的な履修方法を採用することである。
 第二は、各教科目の内容の特徴に対応して、できるだけ体験的な学習経験を提供するとい うことである。                           
 第三は、全学部の保有する知的財産を積極的、且つ効果的に活用することである。それは、市立大学が全学として保有している知的財産を適切な形で、豊かな内容に出会わせたいということを意味していた。言い換えれば、これは教養教育を全学部の教員で担当する体制構築を志向していたといえる。  
 第四は、選択履修の幅をできるだけ広げて、学生達の「選んで学ぶ」機会を大切にしたいという履修方法原則であった。しかしこれについては、聴講生の偏りという現実の前に、その完全な実現はとても困難な状況を迎えることになった。  
 第五は、専門科目と教養的科目の有機的連携性を生かすことを目的として、「開放科目」群を開設することである。これは大学のいろいろな学習をする中で、優れた問題意識を獲獲得した学生達に対して、その学習要求に応えうるような専門科目を提供し、学生達の学習意欲に応えたいという意図から出された考え方であった。  その結果、編成された専門教育課程および教養教育課程については、新学部の項で紹介する。

 

1996年4月 人文社会学部第一期生カリキュラム

教養教育カリキュラム(3学科共通)

授業科目 授業科目
現代社会の諸相 現代社会の構造 国家・人間・法(日本国憲法を含む) 自然の認識 自然のしくみ 宇宙の構造と進化
現代日本経済論 ミクロの世界の物理学
市民社会の思想 物理学入門
市民と政治 物質の世界
分子の形と機能
バイオサイエンス入門
  生命のしくみ
環境と情報 環境経済論 発生の生物学
公害と環境問題 スポーツと健康   健康・スポーツ科学論
情報社会とマスコミ 健康スポーツⅠ
  健康スポーツⅡ
   
異文化・自文化との
であい
異文化の理解 文化人類学入門 外国語 英語 コミュニケーション英語Ⅰ
西洋の人間観 コミュニケーション英語Ⅱ
西洋文化の受容 英語リフレッシュⅠ
ヨーロッパ史入門 英語リフレッシュⅡ
アメリカ史入門 総合英語Ⅰ
東アジア史入門 総合英語Ⅱ
人文地理学 総合英語Ⅲ
自文化の理解 日本の文学 総合英語Ⅳ
日本宗教史 応用英語
日本語学 英語討論Ⅰ
国語表現法 英語討論Ⅱ
東海の歴史と文化 未修外国語 ドイツ語初級Ⅰ
人間性の探求 心と行動 心理学入門 ドイツ語初級Ⅱ
人間の心理と行動 ドイツ語中級Ⅰ
人間形成と自然認識 ドイツ語中級Ⅱ
哲学の基礎 フランス語初級Ⅰ
倫理と生命 生命倫理学 フランス語初級Ⅱ
環境倫理学 フランス語中級Ⅰ
  フランス語中級Ⅱ
  中国語初級Ⅰ
  中国語初級Ⅱ
芸術と表現 美術の歴史と鑑賞 中国語中級Ⅰ
音楽の歴史と鑑賞 中国語中級Ⅱ
人間とデザイン 日本語 日本語初級Ⅰ
  日本語初級Ⅱ
  日本語中級Ⅰ
自然の認識 人間と自然 科学技術史 日本語中級Ⅱ
自然と環境問題  
生活の中の化学 情報と数理   情報数学基礎
食生活と健康 確率と統計
生活の中の衣料 情報処理基礎
人間と居住 情報処理応用

国際文化学科専門カリキュラム

授業科目 授業科目
言語科目   英語セミナーⅠ 展開科目 欧米文化論系 アメリカの文学
英語セミナーⅡ アメリカの歴史
英語による専門討論 アメリカの思想
ドイツ文化論講読Ⅰ アメリカの社会
ドイツ文化論講読Ⅱ アメリカ文化特講Ⅰ(小説の世界)
ドイツ語初級会話 アメリカ文化特講Ⅱ(現代アメリカ思想)
ドイツ語中級会話 ヨーロッパの文学Ⅰ(イギリス)
フランス文化論講読Ⅰ ヨーロッパの文学Ⅱ(ドイツ)
フランス文化論講読Ⅱ ヨーロッパの文学Ⅲ(フランス)
フランス語初級会話 ヨーロッパの歴史Ⅰ(イギリス)
フランス語中級会話 ヨーロッパの歴史Ⅱ(ドイツ)
基礎科目   社会学概論 ヨーロッパの歴史Ⅲ(フランス)
現代社会問題 ヨーロッパの思想Ⅰ(イギリス)
人間論 ヨーロッパの思想Ⅱ(ドイツ)
生涯健康科学論 ヨーロッパの思想Ⅲ(フランス)
比較文化論 ヨーロッパの社会
国際関係論 ヨーロッパ文化特講Ⅰ(イギリス小説の世界)
コミュニケーション論 ヨーロッパ文化特講Ⅱ(オーストリア文学)
英米事情 ヨーロッパ文化特講Ⅲ(ハンガリー文化)
ドイツ事情 関連科目   家族コミュニケーション論
フランス事情 社会病理学
レトリカル・コミュニケーション論 対人コミュニケーション論
言語学 組織コミュニケーション論
基幹科目   異文化コミュニケーション論 マス・コミュニケーション論Ⅰ
文化人類学 マス・コミュニケーション論Ⅱ
日本文化概論 情報社会論Ⅰ
英米文学概論 情報社会論Ⅱ
異文化間心理学 比較社会論
比較宗教論 比較教育学
展開科目 国際日本文化論系 国際関係史 社会思想史
国際経済論 政治社会学
日本文学 民法
日英比較文学 行政法
日本史 英語学
日本研究Ⅰ(ドイツでの日本研究) 英文法
日本研究Ⅱ(フランスでの日本研究) 演習   基礎演習
日米文化論 専門演習Ⅰ
日欧文化論 専門演習Ⅱ
中国文化論 卒業研究演習
東南アジア文化論 卒論   卒業研究(卒業論文)
日本文化特講Ⅰ(日本と朝鮮半島)  
日本文化特講Ⅱ(文化地理学的考察)  

人間科学科専門教育カリキュラム

授業科目 授業科目
基礎科目   人間論 展開科目 社会と人間関係系 人間科学演習Ⅲ
社会学概論 (1)社会と人間関係
現代社会問題 (2)家族と福祉
比較文化論 人間関係論
国際関係論 人間倫理論
生涯健康科学論 コミュニケーション論
基幹科目   発達心理学 現代日本語論
実験心理学 社会哲学
教育学概論 価値規範論
現代教育論 家族コミュニケーション
社会意識論 家族社会学
社会集団論 現代こども論
展開科目 心身相関系 人間科学演習Ⅰ 社会福祉論
(1)発達と行動 児童福祉論
(2)健康科学 児童文化論
心理検査法(演習) 高齢者福祉論
心理学実験(基礎) 障害児教育論
心理学実験(特殊) 社会調査法
教育心理学 関連科目   原典講読(外書講読)
心理統計法(演習) 人間科学特別講義Ⅰ
臨床心理学 人間科学特別講義Ⅱ
学習心理学 社会学史
知覚心理学 地域社会学
神経心理学 地域福祉論
人格心理学 行政法
青年心理学 民法
家族心理学 社会福祉演習
社会精神医学 保育原理
社会心理学 養護原理
健康心理学 小児保健
動作学 小児保健実習
健康管理学Ⅰ(母子健康論) 小児栄養実習
健康管理学Ⅱ 精神保健
(1)栄養学 保育内容演習(健康)
健康管理学Ⅱ 保育内容演習(人間関係)
(2)栄養学実験 保育内容演習(環境)
健康管理学Ⅲ 保育内容演習(言葉)
(1)食品学 保育内容演習(音楽的表現)
健康管理学Ⅲ 保育内容演習(造形的表現)
(2)食品学実験 基礎技能(音楽)
健康管理学Ⅲ 基本技能(体育)
(3)食品加工実験 基礎技能(図画工作)
健康管理学Ⅳ(公衆衛生学) 保育実習Ⅰ
学習と形成系 人間科学演習Ⅱ 保育原理Ⅱ
(1)社会と教育 養護原理Ⅱ
(2)学習と形成 保育内容演習Ⅱ(健康)
教育史 保育内容演習Ⅱ(言葉)
教育制度論 保育内容演習Ⅱ(表現)
教育社会学 乳児保育Ⅰ
生涯学習論 乳児保育Ⅱ
社会教育学 基礎技能Ⅱ(体育)
比較教育学 基礎技能Ⅱ(音楽)
教育内容論 保育実習Ⅱ
教育方法論 保育実習Ⅲ
身体発達論 卒論等 演習 人間科学特別演習
レクリエーション論  
幼児教育論 卒論 卒業論文
教育福祉論  

現代社会学科専門教育カリキュラム

授業科目 授業科目
基礎科目   人間論 展開科目 都市と地域 地域社会学
社会学概論 都市社会学
現代社会問題 地方財政論
比較文化論 政治社会学
国際関係論 現代人権論
生涯健康科学論 地域政策論
基幹科目 問題認識科目 現代産業・労働問題 公共政策論
現代都市問題 地域空間構成論
現代環境問題 地域福祉論
現代家族問題 生活と文化 比較社会論
問題認識特講Ⅰ エスニシティ論
問題認識特講Ⅱ 社会運動論
学科基礎Ⅰ 現代社会論 家族社会学
社会意識論 ジェンダー論
社会集団論 女性と労働
社会構造・変動論 生活構造論
社会階層論 社会病理学
社会学史 社会福祉論
社会情報統計論 生活文化史
社会調査法 関連科目   現代社会学特別講義
学科基礎Ⅱ 社会思想史 異文化コミュニケーション論
法社会論 コミュニケーション論
日本社会史 異文化間心理学
社会経済史 日本文化概論
文化人類学 日米文化論
民俗学 日欧文化論
経済学 アメリカ文化論
経営学 教育社会学
展開科目 産業と情報 労働社会学 生涯学習論
企業と会計 民法
マーケティング 行政法
流通と消費者 演習   基礎演習(原典講読を含む)
オペレーションズリサーチⅠ 演習Ⅰ
オペレーションズリサーチⅡ 演習Ⅱ
情報処理特論 社会調査実習
マス・コミュニケーション論Ⅰ 卒論   卒業論文
マス・コミュニケーション論Ⅱ  
情報社会論Ⅰ  
情報社会論Ⅱ  

 

5. 新学部の内容と理念

 新学部設置事業に関わった多くの方々の努力が報われ、1996年4月、人文社会学部は芸術工学とともに第1期の新入生を迎える運びとなった。この時、認可の可否についてはおおむね12月の早い時期に文部省から知らされていたが、名も知れぬ新しい学部への希望者をどう募集するかは、認可申請事業に次いで、大きな課題となった。  
 この課題については統合準備室を中心に、3大学の事務局が協力していろいろな知恵を出してくださり、多様な方法で取り組んだ。その中で印象に残っている方法は三つあった。第1は、新聞に新学部発足および学生募集を行ったことである。第2に、地下鉄の列車の中に宣伝用の吊りポスターを出したことである。そして第3は、広報用パンフレットの作成と配布であった。このパンフレットについては、今や歴史的資料なので、表紙をお目にかけておきたい。                    
 その後、この第1号パンフレットが無くなった時点で、再度広報用のパンフレットが作成された。今この両者を比較してみると、第1号パンフレットでは「新しい学部には人間味香るあしたがある」というスローガンを最初に掲げて、教養教育および三学科の教育課程を並べていたこと、在籍教員の顔写真とメッセージを掲載していたことが特徴的だった。
 第2号パンフレットになると、スローガンは「人間を考える、時代の扉を開く・・・ここから"21 世紀"が見えてくる」が採用され、冒頭には城戸学部長の「「人間」「社会」「国際」をキーワードに、豊かな人間社会の創造に向けて、積極的に貢献します」というメッセージが掲載された。その後に、服部幸造・国際文化文化学科主任、後藤宗理・人間科学科主任、山田明・現代社会学科主任の学科紹介が掲載されていた。
 また、人文社会学部発足当時の教育内容がどのような内容であったかを記録しておくと意味で、以下、教養教育課程および三学科教育課程を示しておく。今やどちらも幾たびかの改訂過程を経て、大きく変更されていることがわかる(出典:第1号パンフレット)。
 人文社会学部発足以後の歩みを簡単に整理すれば、<表-5>の如くである。この内容を時期区分すれば、第1期:学部発足から最初の卒業生を送り出した時期,第2期:大学院課程(博士前期課程平成12年度、博士後期課程平成14年度)を整備した時期、第3期:教員免許課程設置、社会福祉士受験資格課程設置の時期、第4期:ESDを新たな理念とする学部学科内容の改革に取り組んだ時期(平成25年度)から現在に、分けることができる。
 第1期では,開学前の学生募集活動を継続し、さらなる学生募集活動を行った。そのために先に示したパンフレットの作成や、高校の出品だけでは無く、地元を中心に高校周りを行ったり、この地方合同で開催された大学入試説明会等にも積極的に参加した。もう一つの課題は卒業生の就職指導だった。何しろ全く白紙の状態からの市場開拓であり、当時の就職委員会(森正委員長)の先生方の努力は大変なものだった。しかしそうした努力は結果的には、大いに報われ何とか全員の進路が確定した時にはほっと安堵したのだった。  それ以後もこれら二つの課題については、継続的に多様な取り組みが進められてきている。ここでは歴史を記録するという観点から,2012年から作成されてきている学部・研究科紹介用パンフレットを紹介しておきたい。毎年作成内容に担当者が工夫を凝らし、オープンキャンパス、大学説明会、学校訪問などで活用されてきた大事な資料の一つといえるからである。  
 2012年度のパンフレットの冒頭では、藤田学部長・研究科長が本学部・研究科の意義と魅力を訴えている。第2期では、なんといっても大学院大学化の趨勢に対応して行われた大学院課程(博士前期課程、博士後期課程)の設置作業が、大きな課題だった。なお大学院については別項をたてているので、詳細はそちらをご覧いただきたい。
 第3期では、人間文化研究所の設置と、中学校および高等学校の教員免許課程の設置が大きな事業だった。人間文化研究所は言うまでもなく人文社会学部の教員達の研究活動のさらなる発展と、研究成果の社会環流を目指しての、基盤強化政策の一環だった。この研究所の設置に関しては予算や組織上の問題で、大学の研究所としてではなく、学部裁量の附属研究所(初代所長は村井忠政教授)となった。また2006年からは機関誌『人間文化研究』 を発刊するようになり、貴重な研究資料源となってきている。  
 もう一つは、教員免許課程の設置である。学部としてどのような資格取得を可能とするかは、開学準備過程から大きな検討課題の一つだった。結果としては開学時には保育短大が担っていた幼児教育者(保育士及び幼稚園教員)養成のみを受け継いで出発した。しかし,その後も中学校・高校の教員免許取得に対する学生の要望、現代社会学科および国際文化学科の先生方の熱意等が実を結び、2006年4月に中学校の社会科と英語科免許状、高校の地理歴史科および公民科、英語科の免許状取得課程が設置されたのだった。なお、この免許課程設置については、当時の山田明研究科長の強い熱意が、この実現に大きな支援となったことも忘れることはできない。また、この時に大学院課程において幼稚園、中学校社会および英語、 高等学校英語および地理歴史専修免許課程を設置したことも学部(研究科)にとって、大きな発展要因となった。  
 また、追記すれば、この時免許課程の設置に併行して、学部設置当初からの課題の一つであった、「社会福祉士」国家試験受験資格認定課程の設置も大きな出来事として記録される事項である(平成19年度から実施)。この問題の基本的なネックは社会福祉関係教員3名が必要だという人的条件にあったが、学部教授会の英断と、滝村雅人、吉村公夫両教授の努力がこれを実現させたといえるだろう。


表-5 人文社会学部の歩み(1996~現在)

  和暦 西暦 事項
第1期 平成8 1996 4月 人文社会学部(城戸毅学部長)、芸術工学部と同時に発足。第一回入学生受け入れ。保育士資格取得課程、幼稚園教員1種免許取得課程開設。
平成10 1998 10月 人文社会学部棟完成、使用開始。人間科学科・現代社会学科で3年次編入生受け入れ開始。
平成11 1999 4月 ニューサウスウェールズ大学との国際交流協定締結、学部国際交流事業開始。
平成12 2000 3月 第一回卒業生を輩出。
第2期 平成12 2000 4月 人間文化研究科(博士前期課程設置)。現代社会学科に社会調査士資格(社会調査協会)制度導入。
平成14 2002 4月 人間文化研究科(博士後期課程設置):市立大学の大学院重点化に伴い部局化。名古屋市男女平等参画インターンシップ事業(名古屋市総務局)に参加、次年度から単位化。
平成17 2005 4月 人間文化研究所開設(人間文化研究科付置)。2006年から機関誌「人間文化研究所年報」を発行し、現在に至る。
第3期 平成18 2006 4月 名古屋市立大学は公立大学法人名古屋市立大学になる。教員免許課程開設:中学校教員免許課程(英語、社会科)、高等学校教員免許課程(英語、地歴・公民、政治・経済科目)。
平成19 2007 4月 社会福祉士受験資格課程開設。
6月 丸善において「サイエンスカフェ」開始以後定期開催となる。
9月 「市民学びの会」発足。クイーンズ大学(英国)国際スタディセンターへ学生派遣開始。社会調査インターカレッジ発表会開催。
平成20 2008 4月 国際文化学科が「海外フィールドワーク実習」を開始。人間科学科に認定心理士資格取得課程設置。持続可能な社会形成コース(教養教育)導入。
9月 国際交流推進センターを人文社会学部棟に移設。
平成21 2009 4月 人間文化研究所が7Fに移転:7F研究実験室整備計画が実施された事による。
平成22 2010 4月 三学科ゼミおよび卒論指導開放化開始。
第4期 平成25 2013 4月 ESD対応教育体制の構築、人間科学科を心理教育学科へ変更。
平成26 2014 4月 EDS基礎科目開講:多文化共生基礎科目9科目開講。
第5期 平成27 2015 4月 三学科ゼミおよび卒論指導は各学科内で行うことになる。
平成30 2018 4月 人間文化研究所が1Fに移転、総合生命理学部の教職課程(高校理科)が開始し、人文社会学部と合同で教職課程を維持。ESD基礎科目6科目が開講し2科目4単位が必修
  平成31/令和元 2019 4月 スクールソーシャルワーカー課程開設。再課程認定後の教員免許課程(幼稚園・中学校・高校)、新保育士課程開始。